イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツイァの建物: ベンボ館(Palazzo Bembo)

ドルフィーン・マニーン館右隣はベンボ館です。E.&W.エレオドーリ著『大運河』(1993)は次のような事を書いています。
赤いベンボ館「15世紀、後期ゴシック様式の素晴らしい建物。1階部分にヴェーネト=ビザンティン様式の最初の建築物の際立った要素が保存されており、それは右側角の石材端の部分とアカンサス模様で装飾された美しいコーニスである。
……
ファサード中央は3、4階の二つの対になった五連窓で完結している。最上階は後世の増築。
ティツィアーノ『ピエートロ・ベンボの肖像』P.ベンボ[左、ティツィアーノ『ピエートロ・ベンボの肖像』(ワシントン・ナショナル・ギャラリー蔵)、右、ティツィアーノと工房『ピエートロ・ベンボの肖像』(カポディモンテ美術館蔵、3作ある肖像画の最後の作品――2017.01.21~04.02日の『ティツィアーノとヴェネツィア派』展で来日] 
 
この館でピエートロ・ベンボは生まれた[この話は最近、下記のような疑義が申し立てられています]。ベンボ家は建国時の最古の福音家族の4家の一つであった。ずっと後に一人の総督を生んだのみで、センセーショナルな大議会のセッラータ(serrata)後、3世紀以上も続いた“新家族”(nuove)の優位性はようやく“最古の一家”(vecchie)が権力の座に昇り、実現した。
[serrata――1297年と1307年に大議会の議員資格が特定の家柄に限定され、その家柄の全ての成年男子(25歳以上)は非嫡出や合法的に廃嫡された者を除き、大議会に議席を持ち、貴族と規定された―『ヴェネツィア貴族の世界』(永井三明著、刀水書房、1994年2月4日)より]

ジョヴァンニ(任期1615~18)が総督に選ばれたが、彼はウスコック人[16~17世紀トルコと戦った民族]の海賊との戦いで有名になった年老いた兵士だった。

しかし多くの外交官、兵士、旅行家、商人の中で、ピエートロ(1470~1547)は一家に栄誉をもたらした。大文化人であった彼は、聖職者の人生を選んでいた。イタリア各地の宮廷で過ごした後、1519年の父の死後、ヴェネツィアでの生活に戻り、1539年には枢機卿に選出され、ローマでの生活となり、その地で没した。

彼はイタリア文学における画期的な里程標を構築した。また古典主義的俗語のマエーストロとして、特にルクレーツィア・ボルジャに捧げた『アーゾロの人々』の著名な愛の対話で名声を博した。

この『アーゾロの人々』は震えんばかりの、温かな(人間的な)本質を示している。即ち、彼がある若い女性と恋に落ちたことを思い起こすのにぴったりの書だということである。彼は宗教的なあらゆる便宜を失うことになったかも知れないので、彼女とは結婚出来なかったが、夫婦のように生活をしたのだった。」

R.ルッソ著『ヴェネツィアの建物』(1998)は、概略次のような事を書いています。即ち、彼は詩人文学者、公式の歴史著述家、枢機卿でレオ10世の秘書でもあった。ルクレーツィア・ボルジャ①やカテリーナ・コルネール(1454~1510)②の友人でもあった。
[①フェッラーラの名君アルフォンソ1世デステ公に後妻として嫁ぐ。②キプロスのリュジニャン[西フランス出身ジャック2世―Jacques Ⅱ de Lusignan]王[伊語式ではGiacomo Ⅱ di Lusignano。またイエロニモス2世という表記も見ましたが何語式でしょうか]に嫁いだ。王と息子死後、セレニッシマに戻り、アーゾロに住む。]
ジェンティーレ・ベッリーニ『カテリーナ・コルネールの肖像』ティツィアーノ・ヴィチェッリオ『カテリーナ・コルネールの肖像』[『カテリーナ・コルネールの肖像』、左はジェンティーレ・ベッリーニ画、右はティツィアーノ・ヴィチェッリオ画]
なおこの書は、彼は炭河岸(Riva del Carbon)のこのゴシックの建物には住まなかったのではないかと書いています。ベンボ家はボローニャ出身で、697年の最初の総督パオルッチョ・アナフェストの選挙に参加したほどの古い家柄だということです。
カテリーナ・コルネールの生まれた邸宅「コルネール・デッラ・レジーナ館」[右端は大運河右岸(以前左岸と書きました)のペーザロ館、左中央寄りがカテリーナ・コルネールが生まれたコルネール・デッラ・レジーナ館]

日本の百科事典からピエートロ・ベンボの事績を抜き書きして纏めてみますと、①古典文学作品に限られていたテキストの文献学的研究をイタリア語の作品に応用して、ダンテ『神曲』、ペトラルカ『カンツォニエーレ』を出版した。②旧来の愛の概念に検討を加え、愛とは、神聖かつ理想的な美について思索を深めるものだとし、『アーゾロの人々』(1505)を出版した。③ラテン語に代わる文学語としてイタリア語を用いるよう提唱し、その規範として、ダンテ、ペトラルカ、ボッカッチョを生んだトスカーナ語の使用を主張した『俗語散文集』(1525)を発表した。④『詩集』(1530)では、ペトラルカの詩法を忠実に模倣し、その後これに倣った詩人の輩出の端緒を開いた。⑤ヴェネツィア共和国の公式の記録者として『ヴェネツィア史』(1530)を書いた、等が挙げられます。
アーゾロの談論『アーゾロの人々』は、日本では『アーゾロの談論』(仲谷満壽美訳、ありな書房、2013年3月)として翻訳出版されています。

彼は枢機卿としてローマに住み、亡くなったので、墓はサンタ・マリーア・ソープラ・ミネルヴァ教会にあるそうです。ベンボ館右側のベンボ通り(Cl.Bembo)を挟んで右隣の17世紀の住宅に、1730~40年アントーニオ・ヴィヴァルディがウィーンに旅立つまで住んだそうです。2010.04.03日のブログヴィヴァルディの家でその事について触れました。
  1. 2012/01/14(土) 00:09:46|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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