イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの広場: サンタ・マルゲリータ(S.Margarita)広場(2)

ジュゼッペ・タッスィーニ著『ヴェネツィア興味津々』(1863)はサンタ・マルゲリータ広場について次のような事を書いています。
ジュゼッペ・タッスィーニ『ヴェネツィア興味津々』「サンタ・マルゲリータ教会は、836年に総督に選ばれ、853年には聖別されたピエートロ・トラドーニコ時代、ヴェネツィア人のジェニアーノ・ブジニャーコ(or ブジニャーゾ)によって建てられた。あるビジーナとかいう人は、1330年隠者としての孤独な隠遁生活をするために、近くに狭い独房を作ったらしい。

しかしキリスト昇天祭の前の晩には、サン・マルコ寺院でその日、認められている贖宥を得るために出向けるようにしていた。狭い通路を通って、この頑迷な信仰者はサンタ・マルゲリータ教会大クーポラの上まで昇り、聖務日課に参加することが出来た。

サベッリコはその時代このクーポラは金色に輝き、オリエントの大きな大理石の柱で支えられていたことを記憶している。サンタ・マルゲリータ教会は17世紀初頭改築される必要が生じ、1647年完成を見た。1810年までこの教区は続いた。その年教会は閉鎖され、民間利用に供されたのだった。

サンタ・マルゲリータ広場には、正確に言えば Ca' Canal(カ運河)を埋め立てる前、いわゆる Fondamenta della Scoazzera(スコアッゼーラ運河通り)が拡張され、碑盤にあるように富裕で教養豊かなパードヴァの上流夫人、マッダレーナ・スクロヴェーニによって創建された貧しい庶民用の病院、即ち救護施設があった。
[Scoazzera(ヴェネツィア語)を辞書で引くと家のゴミ収集の木製の《ゴミ箱》の意とあります。またゴミあるいは堆肥を集める人の妻あるいは女清掃人の意にも使用。更にそのゴミあるいは堆肥を集めてヴェネツィア外の土地に運び、土地の肥やしにするのですが、その運ぶ船の意にも使ったようです。]

彼女は、パードヴァのサンタ・マリーア・デッラレーナ教会[マドンナ・デッラレーナ教会とかサンタ・マリーア・デッランヌンチャータ教会とも呼ばれるこの教会のスクロヴェーニ礼拝堂にジョット・ディ・ボンドーネがフレスコ画を描いたことで有名。ジョットのパトロンであったエンリーコの命で1305年献堂されました]を建てたエンリーコ・スクロヴェーニの息子ウゴリーニの娘で、エンリーコはダンテが『神曲』地獄篇の中で高利貸しの仲間に入れたリナルド[Reginaldo degli Scrovegni の事?]の息子である。 」
ジョット・ディ・ボンドーネ画『東方三博士の礼拝』[ジョットがスクロヴェーニ礼拝堂に描いたフレスコ画連作の内、1301年飛来したハレー彗星を描き込んだ『東方三博士の礼拝(Adorazione dei Magi)』]

[ 「『神曲』地獄篇第17歌
第7圏(ここには暴力者が住んでいる)第3環。神に対する暴力者――高利貸つまり技術すなわち神の孫に対する暴力者――彼らは一門の紋章のついた財布を頸からかけ火の雨の中に坐っている――ジェリオーネ――カステロ・デイ・ジャンフィリアッツィ、ウブリアーキ、スクロヴェーニなどはヴィタリアーノ・デル・デンテおよびジョヴァンニ・ブイアモンテなどを取り巻いている――二人の詩人はジェリオーネの背に乗って第8圏に下る
……
すると白色の小さな財布に青色の孕(はら)んだ
牝豚の模様(1)のついたのをさげた一人が私に
いった。《きみはこの濠の中でなにをしているのだ、
さっさと行ってしまえ。だがきみはまだ、
生きているのだから、私の左側に私と
同郷のヴィタリアーノ(2)がもうじき坐るのを
知っておくがよい。これらのフィレンツェ人のうち
私だけがパドヴァ人なのだ。……》
……
  注(1)パドヴァの名門スクロヴェーニ家の紋章
  注(2)ヴィタリアーノ・デル・デンテといって、1307年パドヴァの長官となったこともある人。」
  ――『筑摩世界文學大系 11――ダンテ』(野上素一訳、筑摩書房、昭和四十八年十一月十五日)より ]

「彼女はフランチェスコ・レジーニと結婚したのであって、弁護士の資格を持つアントーニオ・ピアッツァがチコーニャに宛てた手紙の中で推察し、また『Inscrizioni』の中で、チコーニャが引用しているようにフランチェスコ・マンフレーディではない。

彼女は1439年ではなく、1428年に亡くなった。その年1421年5月21日から住んでいたサンタ・マルゲリータ地区で作られた遺言状が公にされた。スクロヴェーニによって創建され、1762年サン・マルコ財務官の手で修復された右岸の救護院の傍に、現在でもメネギーナ・ボッコによって、12人の女性貧窮者のために建てられた、別の救護施設がある。

ということはそれは、1403年11月18日の遺言書として残されたものであるということである。サンタ・マルゲリータ広場にある二つの井戸は、1529年11月12日、Pregadi(ヴェネツィア元老院)の命で作られたものである。

この広場の中央に、今でも毛皮製造業者[varoter=ヴェ語単数←varoteri複数]のスクオーラ(同信会館)が建っているが、イエズス会に所有されていたもう一つの作品が手放された後、1725年に『聖母マリアの聖エリザベツ訪問』が彼らによって奉納された。敬虔な浅肉彫りがファサードを飾っていたが、市の博物館に1886年納められた。 」
  ――『ヴェネツィア興味津々』(ジュゼッペ・タッスィーニ著、Filippi Editore、1863)より
  1. 2012/01/28(土) 00:07:12|
  2. ヴェネツィアの街
  3. | コメント:2
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コメント

こんばんは! 懐かしいサンタ・マルゲリータ。 私もあの広場にスクロヴェンニ家所縁の女性が住み、病院を遺している事を知って驚いたのでしたが、あの広場ではムッソリーニも演説した事があったとか。

つい先日パドヴァのスクロヴェンニ礼拝堂を訪れ、これも懐かしいジョットのフレスコ画を見て参りました。
既に26年かになる昔に見た時と比べ、修復されて大変明るく美しく見やすくなっていて、大変良かったです。

下のベンボ館の事、ああ、あの家が彼の家でしたか。 大変大きなものですね。
カテリーナ・コルナーロとは親戚筋だと読みましたが。
  1. 2012/01/30(月) 23:55:07 |
  2. URL |
  3. shinkai #-
  4. [ 編集 ]

shinkai さん、コメント有り難うございます。
ベンボはコルナーロ家と親戚筋だったのですか、知りませんでした。有り難うございました。
サンタ・マルゲリータ広場には語学学校があり、何度か通ったので、ヴェネツィアでは最も懐かしい広場の一つです。例えば、アックア・アルタの時など、町の人達の意見を聞いて来いと学校を追い出され、広場の商店等で水が引いた後、掃除をしている人等に意見を聞いたこともありました。親しくなった人も何人か出来ました。本当に思い出深い広場です。
スクロヴェンニは人を案内して3度行きましたが、段々入場手続きが複雑になってきました。当然の成り行きだと思われますが。
  1. 2012/01/31(火) 12:39:44 |
  2. URL |
  3. pescecrudo #/plE8HKU
  4. [ 編集 ]

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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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