イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの建物: ダンドロ小館とダンドロ館(2)

[続き]
「その時総督はこの事態を予測していたかのように、無遠慮な提案を言い放った。共和国は、もし十字軍がヴェネツィアに反抗するダルマツィア海岸の諸都市を服従させるのに手を貸してくれるならば、運送費用全額を引き受けましょう、と。
エンリーコ・ダンドロ[出航前、サン・マルコ寺院で忠誠を誓い合う総督と十字軍一行(総督宮殿、大評議会の間)]  ザーラ(現、クロアティアのザダル)はヴェネツィアに楯突いていたがため、自業自得の運命を辿った最初の町である。町が征服され、船団が出港しようとしている時に、権力を奪われた Basileus(皇帝の意)イサキオス2世(Isacco Angelo)の息子がやって来て、父が王冠を取り戻したいので助けて欲しいと総督に懇願した。そしてもし戴冠式が東方正教会で行われるならば、教会はまたラテン教会と一つに結ばれ、統合されるようにすると約束した。

しかし十字軍の力で皇帝が再び王冠を被った時、ギリシア人民はその事に反対し、それらの約束は守られることはなかった。宗教問題がダンドロほどの精神堅固な男の意識に、それ程の痛みを与えるとは考えにくいが、その事は決して忘れることのなかったほとんど盲目、という苦痛を与えられ、今や昔となったかつての事件の清算をする、またとない口実を彼に与えた。

1204年十字軍が雪崩を打って、コンスタンティノープルの400の塔に向けて攻撃を仕掛けたのである。それだけではない。彼自身100歳に近かったが、身体頑強で、不屈の精神の持ち主であり、サン・マルコの旗を手にし、戦士達と地上に降り立った。
ドメーニコ・ティントレット画『コンスタンティノープル征服』[ドメーニコ・ティントレット画『コンスタンティノープル征服』]  町の落城、即ち帝国の慴服後、十字軍は土地を分け合った。そして帝国の王冠をダンドロに差し出したが、彼はそれを拒否した。彼の代わりに、帝国の王冠はフランドル伯ボードゥアン[エノー伯を兼ねる]の頭上に輝いた。

しかし総督が手にした戦勝品は途轍もないもので、信じがたい量だった。その上この町の8分の3の土地の他に彼が付け加えたのは、アイトリア・アカルナニア(Acarnania, Etolia=現ギリシア中西部地方)、エーゲ海のイオニア諸島(isole Jonie)、キクラーデス諸島(Cicladi)、スポラーデス諸島(Sporadi)以外に、更に多くの最重要の土地や島等である。

その調整作業は大変な時間を要した。《オリエントのラテン帝国の8分の3の宗主》と称することだけでなく、レヴァントでの通商の大幅な拡大、何世紀にも渡って商業的優位を保持出来ることがヴェネツィアに齎された。その上モンフェッラート侯[十字軍の総大将]からクレタ島(Candia)を譲り受けた。

ヴェネツィアに帰還した船は、貴重な宝石類、真珠、想像も出来ない芸術品の数々という巨大な宝の山を持ち帰った。例えば、サン・マルコの4頭の青銅の馬、高価で珍しい織物類、銀40万マルコ、金1万2千リッブラ、更に銀5万リッブラ。
聖マルコ寺院の4頭のブロンズ馬ヴェネツィアが現在のような素晴らしい街になったのは、その芸術作品のお陰であった。エンリーコ・ダンドロの後にも先にも、こうした事は決して見られなかった。
エンリーコ・ダンドロ総督は、……1205年6月、97歳の時この地に没した。……」
  ――E.&W.エレオドーリ著『大運河』(1993)より

ビザンティン式という形容に用いられる常套的形容詞に、《煩瑣な》儀式、《狡猾な》外交、《阿った》美辞麗句、《枝葉末節の》論議等、ビザンティン帝国の歴史的な特性だったことから使われる言葉があるようです。

[上記の『コンスタンティノープル征服』の絵を調べている時、非常に信頼しているアルヴィーゼ・ゾルジ著『ヴェネツィア歴史図鑑』(金原由紀子他訳、東洋書林刊)は、キャプションにパルマ・イル・ジョーヴァネ作としていました[キャプションは日本で作文されたのでしょうか]。総督宮殿で購入した図録は、絵が左右逆版になり、Domenico Tintoretto 作となっています。結局、『図説 ヴェネツィア 《水の都》歴史散歩』(ルカ・コルフェライ著、中山悦子訳、河出書房新社刊)を利用させて頂きました(聖マルコ寺院の4頭の馬も)。画名も伊語で、presa、conquista、和訳も征服、陥落等を見掛けました。]
  1. 2012/02/18(土) 00:00:26|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
  3. | コメント:2
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コメント

こんばんは! そうでしたか、トルコに勝ったという十字軍の勝利がいつも表面に出るのですが、こうして具体的にヴェネツィアの戦利品について知ると、大変な勝利だったですねぇ! 有難うございます。
これがあったお陰で、実際にヴェネツィアは裕福になり、この後の進展にも繋がったのでしょう。

ビザンティン式、という言葉の意味するもの、そうですか、成程。 既に熟成した国の持つ政治、芸術に関する様々、ですね。
  1. 2012/02/23(木) 17:13:21 |
  2. URL |
  3. shinkai #-
  4. [ 編集 ]

shinkai さん、コメント有り難うございます。
自分で訳してみるまでは、これほど沢山の土地を領有したのだとは、思いも至りませんでした。列挙してみればかなりの量です。
その上提供されたビザンティンの王冠を断り、ヴェネツィアの将来に起きたかも知れないゴタゴタを未然に防いだというのは、相当の老齢に達していながら、ダンドロの頭は冴えていたと思われます。老人が自分の名誉より国の実利を取ったということです。
こうした合理的・功利的な発想をする商人貴族達が陸続と現れ、政治を司ったことがセレニッシマが一千年も持続した所以でしょうね。

  1. 2012/02/24(金) 07:03:22 |
  2. URL |
  3. pescecrudo #/plE8HKU
  4. [ 編集 ]

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Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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