イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの建物: コルネール=ロレダーン館(P.Corner- Loredan)(1)

サン・マルコ方面は大運河の《上(かみ)》になり、ローマ大広場(Piazzale Roma)方面は《下》となるため、リアルト市場側は左岸と呼ばれ、サン・マルコ側は右岸と呼ばれるようです。また違った言い方もあって、サン・マルコの《こちら側》の意で右岸をラテン語で de citra(羅語前置詞)と言い、左岸をサン・マルコの《向こう側》の意で de ultra と言うそうです。
[2015.07.27日追記: サン・マルコ湾を海と見るのが正しいようで、サン・マルコ側を左岸、リアルト市場側を右岸とするのが正解のようです。『ヴェネツィア 大運河』(ウンベルト・フランツォイ著、陣内秀信監修、中山悦子訳、洋泉社、1994年10月3日)による]

その大運河右岸の炭運河通り(Riva del Carbon)を進み、ヴィヴァルディが晩年住んだ家の前を通り、ダンドロ館を過ぎると、コルネール=ロレダーン館(現、市庁舎)に至ります。市庁舎のカルボーン通り(Cl.del Carbon)側の壁面に次のような碑文が掲げてあります。
コルネール=ロレダーン館とダンドロ=ファルセッティ館エーレナ・ルクレーツィアの碑《ここでエーレナ・ルクレーツィア・コルナーロ・ピスコーピアは1646年に生まれた。1678年6月26日、女子として世界最初に大学を卒業した。》

パードヴァのボ大学(哲学科)を卒業した、世界初の女性大学卒業生エーレナ・ルクレーツィア・コルネール(コルナーロとも)=ピスコーピアの誕生した邸宅がここのようです。パードヴァのボ大学本館のガリレーオ・ガリレーイが教壇に立ったホールのある2階へ昇る階段下にも、彼女の彫像と共に説明の文言があります。
エーレナ・ルクレーツィア・コルナーロ・ピスコーピアイタリアのエーレナ・コルナーロ・ピスコーピアのサイトから借用。パードヴァ大学にある彼女の彫像
『La bussola del viandante, ovvero Lo stradario di Venezia』(Piero Pazzi著、Tipografia del Centro Grafico di Noale)によれば、コルネール=ピスコーピア館(Ca' Corner Piscopia)について次のようにあります。
「元々この古い建物は、退位(1275)後の総督ヤーコポ・コンタリーニが、1280年に呼んだパルマのボッカージ一族によって建てられたと思われる。その後1361年、オーストリア公の宮廷を招いたザーネ家の手に渡った。2年後この高名な建物に実際に繋がりを持っていたコルネール家の所有となった。

1363年ここに、フェデリーコ・コルネールがキプロス島の王、ピエートロ・ルジニャーノ[後にカテリーナ・コルネールが嫁入りしたリュジニャン(仏語式呼称)王家]を招いた。7万ドゥカートを融資した見返りにピスコーピア城を譲与された。そのためこの一族はコルネール・ピスコーピアと称される。

1684年、ロレダーン家との婚姻があり、更には1867年にヴェネツィア市が購入し、市庁舎は隣接する市の建物(ファルセッティ館)と陸橋で結ばれて拡張された。」

また2008.09.28日に触れた、サンタ・クローチェ区のナザーリオ・サーウロ広場の呼称の元となった、愛国者ナザーリオ・サーウロの顕彰碑がこの市庁舎の玄関口に掲げてあるようです。

「QUESTE RELIQUIE/ DEL MARTIRIO DI NAZARIO SAURO/ QUI FUGGIASCHE DA POLA/ AFFIDANO GLI ESULI GIULIANI E DALMATI/ ALLA MATERNA PIETA` DI VENEZIA/ PERCHE` SIANO SERBATE AL DI` DEL RITORNO/ X-II-MCMXLVII X-VIII-MCMLIV.(ポーラ[クロアツィアのプーラ]からここに帰還したナザーリオ・サーウロのこれらの殉難碑、ヴェネツィア・ジューリア地方やクロアツィアの亡命者達はヴェネツィアで祖国への愛を信じていた。何故かならば、1947年2月10日の帰国の日まで待ち続けていたのだから。1954年8月10日。[1916年8月10日、当時オーストリア領カポディーストリア生れのサーウロをオーストリア軍は裏切者としてポーラで絞首刑にしました])」

コルネール=ロレダーン館についてE.&W.エレオドーリ著『大運河』(1993)は次のように述べています。
「宮廷風の優雅なスタイルで、伝統的な商館邸宅を発展させたヴェーネト・ビザンティン様式の素晴らしい例の一つである。元々の1階の回廊と2階全体を覆う酒杯で飾られた、連続する露台を持つ多連窓はそのまま残されて、3階・4階が16世紀に建て増しされた。

その多連窓については、内側の柱の区切りがサロンに採光する中央開口部を区切るように、2ヶ所の2本柱で強調されている。この伝統はパルマ出身のボッカージ一族(Bocassiと誤植してます)の建築で、13世紀に遡る。その後、ズィアーニ家の建物、更に1300年代にはコルネール家の建物となる。1703年ロレダーン家の手に渡り、1867年には市の所有となった。そして右隣のファルセッティ館と共に市庁舎となった。
……
ロレダーン家は“新しい(nuova)"一家で、その出自は11世紀に遡り、幾つかの分家に分かれ、現在もサン・ヴィーオ教区に現存する。一人の素晴らしい人物以外にも、共和国で名を成した一連の政治家や海や陸の著名なキャプテンとなった者、そして3人の総督がいた。」
  ――『大運河』(1993)より。後半は次回(2)です。
  1. 2012/05/05(土) 00:02:43|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手知ったヴェネツィアを先ずは訪れて、各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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