イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの建物: コルネール=ロレダーン館(2)

(続き)
「最も苦労多き期間に、アゴスティーノ・バルバリーゴに次いでレオナルド(在位1501~21)は総督になったが、いずれにしてもこの時期は共和国にとっては大変な時期だった。第一に、彼が総督職に就くやトルコとの関係がまたまた悪化し、一触即発の戦争の危機となった。結局、1503年領土上の夥しい損失があったものの、トルコとの和平が成立した。当然、海上貿易上の更なる損失も生じた。

第二には、カンブレー同盟に連合したヨーロッパ諸国が、ヴェネツィアに敵対したカンブレー戦争という、本土で直面した戦いの出費である。しかし柔軟な外交活動のお陰で、対仏神聖同盟[1511年スペイン、イギリス、スイス、ヴェネツィアが、仏軍をイタリアから撤退させるために結んだ同盟]の一員に加わり、ヴェネツィアはヨーロッパでの信望と力を取り戻すことが出来たが、それは偏に妥協の産物だった。
……
ピエートロ(1481~1570)は1567年に総督に選ばれ、トレント公会議[1545~63年]の通達を認めることを拒んで、当時における強力な教皇庁と公然と確執を醸し、一家のエネルギーを蓄え、安定性を強化した。彼を激しく打ちのめしたのは、再びトルコ側から起こされたキプロス攻撃であった。彼は既に老齢[88歳]で、1570年には心配のあまり亡くなった。

フランチェスコは1752~62年総督を勤めたが、それはもうヴェネツィア共和国が落ち目の時期だった。

この一家の幸運は商業を基本に据えたことであった。1300年代の半ば以来、ジョヴァンニ・ロレダーンの足跡が中国に見られる。彼は実り多かった商業活動の末、1338年には同族の他の2人とインドに向けて出発している。我々が現代ジェット機で旅行をするように、当時ヴェネツィアと家族から何年間も離れて、同じような旅をしたということである。

こうした商人貴族達は、帳簿を完全な形で整理・保存した。ヤーコポ・ロレダーンの記録の中には、フォースカリ家とこの一家の不和に起因するゾッとするような悲劇的な記述が残されている。

1423年、父ピエートロ・ロレダーンとフランチェスコ・フォースカリは総督選出の選挙戦に巻き込まれ、フォースカリが勝ち、こうして以前から燻っていた憎しみが再点火された。そのあとピエートロが突如不可解な死を遂げ、更にその直後彼の兄弟のマルコが同じような奇異な死を迎えた。フォースカリの誰か友人が毒を盛ったという噂が流れた。
……
数十年後の1457年、フランチェスコ・フォースカリは一家の不幸な生活と彼自身の政治上のあらゆる不手際のため免職させられ、失意の中で他界した。[2010.09.11日の―《フォースカリ館》―をご参照下さい。]

そしてヤーコポは、手短且つ冷徹にそのドラマティックなページのタイトルの下に、ただ2語を書き足した、《清算完了》と。」
  ――E.&W.エレオドーリ著『大運河』(1993)より。
ジョヴァンニ・ベッリーニ画『レオナルド・ロレダーンの肖像』 ヴィットーレ・カルパッチョ画『レオナルド・ロレダーンの肖像』[左、ジョヴァンニ・ベッリーニ画『レオナルド・ロレダーンの肖像』。右は、昨年(2011年)秋の《ヴェネツィア展》に、コッレール美術館から初来日した『二人の貴婦人』『赤いベレー帽を被る貴族の男』等と共にやって来たヴィットーレ・カルパッチョの『総督レオナルド・ロレダンの肖像』(カルパッチョに帰属)です。近年この作品はヴィンチェンツォ・カテーナの手になるのではないかとも言われているそうです。]

アルヴィーゼ・ゾルジ著『ヴェネツィア歴史図鑑』(金原由紀子他訳、東洋書林、2005年4月22日)掲載の、上左の『レオナルド・ロレダーンの肖像』のキャプションは次のようです。

「……ジョヴァンニ・ベッリーニによる(ロンドン、ナショナル・ギャラリー蔵)。総督はかつては政治と軍事の最高権力者だった。ところがその特権は何世紀もの間に、選挙で選ばれた主席行政官としての権限にまで縮小されるようになる。
ジョヴァンニ・ベッリーニが威厳と思慮深さをそなえた風貌に描いたレオナルド・ロレダンは(実際にそうした人物であったことは年代記者の記述からも裏付けられる)、ヴェネツィアが《全世界を敵にまわした》時期に総督を務めた。
ヴェネツィアの覇権があまりに突出したため、教皇ユリウス2世、フランス国王ルイ12世、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世、アラゴン国王フェルディナンド[Ferdinandoは伊語式の言い方。西語ではアラゴン・カスティリャ連合王国王フェルナンド2世(Fernando Ⅱ)]がカンブレー同盟(1508年)を結成したのである。
ヴェネツィアがイタリア本土に所有していた領土をすべて失いそうになりながらもこの危機的状況を回避できたのは、政府首脳が賢明に立ち回ったお陰だった。」

イタリアのウィキペディアは、上記のヴィンチェンツォ・カテーナについて次のように記述しています。
「Vincenzo Catena は Vincenzo Biagio(1470頃~1531)とも言われ、ルネサンス期のヴェネツィア派画家の一人。名前はジョルジョーネの『ラーウラ』の背景に書き込まれたサインで知られる。生涯についてはあまり知られていない。作品はルーヴルやロンドンのナショナル・ギャラリーに展示されている。
ジョルジョーネ『ラーウラ』 ヴィンチェンツォ・カテーナ『聖母子と聖人達』[左、ジョルジョーネ画『ラーウラ』、右、カテーナ画『レオナルド・ロレダーンに崇拝される聖母子と聖人達』]
彼の最初の創造性は、1500年代の、後期アントネッラ・メッシーナ派の伝統とした色に色濃く残っている。ベッリーニ風のイコン的要素を取り入れたり、チーマ・ダ・コネリアーノ風の彫塑風の重視など。しかし、アルヴィーゼ・ヴィヴァリーニの画法の影響は色濃い。この期の例は、『聖会話』『レオナルド・ロレダーンに崇拝される聖母子と聖人達』(1506)。

第2期は、ベンボやトリッシノのような人文主義者との交流のお陰もあって、ジョルジョーネやティツィアーノの作り上げた芸術的世界と取り組むことになった。パルマ・イル・ヴェッキオの色や形の切磋琢磨した研究のお陰で、色彩の豊かさ、彫像的な形の構成による、意義深い作品を残した。……」
  1. 2012/05/12(土) 00:11:11|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは十数年前。ヴェネツィアには即一目ぼれ。
その結果、伊語勉強のためにヴェネツィアの語学学校に何年間か数ヶ月通いました。
その後もヴェネツィアを訪れるたび、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら書くのが楽しいのです。

*図版はクリックすると拡大されます。

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