イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの建物: コルネール=ロレダーン・ピスコーピア館(3)

R.ルッソ著『ヴェネツィアの建物』(1998)は、この館に関して次のような興味深い話を載せています。

「この館はパルマ出身のボッカージ(Boccasi)一族(1400年代には消滅してしまった)によって13世紀にヴェーネト・ビザンティン様式で建てられた。続いて建物の所有はズィアーニ家の手に渡ったが、その中でも最も著名な人物が総督セバスティアーノ・ズィアーニで、1177年ヴェネツィアで教皇アレクサンデル3世とフリードリヒ赤髯王との和平交渉を取り仕切った。
[彼はサン・マルコ寺院において、教皇権のアレクサンデル3世と皇帝権のフリードリヒ1世バルバロッサとの媾和をヨーロッパ諸公参列の中、実現させました。ヴェネツィアが新しい制度により初めて選出したこの総督ズィアーニは、1063~94年のサン・マルコ寺院の再建後、寺院前を走っていたバターリオ(Batario)運河を埋め立てたり、総督宮殿を始め寺院周辺の整備・美麗化に努め、以前より遥かに美しい広場・建築群を現出させていた、そんな中でこの和平が締結されました。]

14世紀には、当時のヴェネツィア共和国で最も富裕になったフェデリーコ・コルネールがこの建物を手に入れた。商業と工業の事業を営み、全てレヴァントで利益を上げた。1366年には兄弟と共にトルコの脅威に曝されていたキプロス島のリュジニャン王ピエールⅡ世(Pietro Ⅱ di Lusignano)に莫大な貸し付けをした。
[フランス出身のギー・ド・リュジニャン(Guy de Lusignan)の王家であるので、ピエールⅡ世とする。あるいは現在希語圏であるので希語式にペトロス?とすべきでしょうか?]

フェデリーコは大運河のこの館に王を招き、王からキプロス島のピスコーピアの封土を譲与された。その地で関税その他の税を免除され、砂糖の栽培・精製の許可を得た。
[コルネール家は貸し付けの抵当に島の南のEpiskopi(エピスコピ=伊語ピスコーピア)地方を手に入れ、その地を灌漑し、砂糖黍農園を経営し、精製して販売(無税の特権を得た)、多大の利益を上げ、共和国一裕福になったそうです―ここに来てようやくピスコーピアの名前の由来が分かりました]。

その上ピエール(ピエートロ)王は彼を騎士団(Ordine della Spada)[キプロスは、Jacques Ⅱ世(Giacomo Ⅱ)が聖ヨハネ騎士団に領地を与え、騎士団の基地となっていた]のシュヴァリエ(cavaliere―騎士)に任命した。その事は現在でも見られる寓意的な装飾紋章として、この館のファサードに彫り込まれている。即ち、Davide と Golia[ゴリアテ(ペリシテ人の巨人戦士)はダーヴィデに石を投げられ殺された―フィレンツェ・アッカデーミア美術館のミケランジェロのダーヴィデ像]、Giustizia と Fortezza[キリスト教の四つの枢要徳(virtu` cardinali)中の正義と剛毅。他にPrudenza(賢明)、Temperanza(節制)]、リュジニャン王家とコルネール家の紋章である。
……
この館は、特にジョヴァンニ・バッティスタ・コルネールと彼の娘のエーレナ・ルクレーツィアの思い出と深く繋がっている。

サン・マルコ財務官であったジョヴァンニ・バッティスタ(Giovanni Battista)は、全く謙虚さも控え目なところもない階層の女と再婚を決めて、スキャンダルが生じた。新婦のザネッタ・ボーニ(Zanetta Boni)はロンバルディーアのヴェネツィア領から遠く離れたヴァルサッビア出身で、ボルデッリ兄弟が最低の高級娼婦の一人としてヴェネツィアに連れてきた女だった。

結婚後、財務官夫人と呼ばせようとし、昔の仲間から大いに妬まれた。上流階級夫人達は誰も彼女を相手にしなかったし、貴族の黄金名簿の管理者である共和国司法長官(Avogadori di Comun[advocatores Communis])は、この結婚をこの貴族紳士名鑑に書き入れることを拒否した。

その結果、彼の息子のフランチェスコとジローラモは大議会から閉め出され、ということは貴族社会からも排除された。1664年になって、第4回目の請願書と15万ドゥカートの提供により、ようやくにして貴族と認められた。

ジョヴァンニ・バッティスタの娘のエーレナ・ルクレーツィアは1646年に生まれた[ジョヴァンニとザネッタの間に生まれた7子の5番目]。彼女を古典の勉学に進ませるように進言したのは、家庭教師であった司祭のジャンバッティスタ・ファブリスだった。彼女は、サン・マルコ図書館の管理を任されていた大変著名な学者アルヴィーゼ・アンブロージョ・グラデニーゴの手に委ねられ、彼は羅典語、希語、仏語、西語、数学、音楽と彼女を教えた。数学者のカルロ・リナルディーニは、エーレナの弁証法、哲学、神学、そして占星術に至るまでの完璧な知識に驚きを禁じ得なかった。
エーレナ・ルクレーツィア・コルネール・ピスコーピア[ウィキペディアより借用。画家不明『エーレナ・コルナーロの肖像』(ミラーノ、アンブロジアーナ図書館蔵)] ゲットの律法学者(ラビ)とヘブライ語で話し、31歳の時にはものの分かる聴衆を前にして、羅典語と希語で哲学論争を堂々と渡り合った。1678年6月25日、パードヴァ大聖堂で卒業弁論が開陳された。一人の女が、ドクターの資格を得たのは史上初のことである。結局研究活動にのめり込み、38歳の時、パードヴァのコルネール家の館で亡くなった。

1703年この館は、ジローラモの娘ルクレーツィアとジョヴァンニ・バッティスタ・ロレダーンとの結婚により、ロレダーン家の手に渡った。館が売却され、ホテルに改変された1800年代初頭までは、ロレダーン家の所有であった。

その後、ヴェローナの伯爵夫人カンパーニャ・ペッカーナに売り渡され、彼女は館を修復した。最終的には1864年ヴェネツィア市が獲得し、今日では市庁舎となっている。」
  ――ラッファエッラ・ルッソ著『ヴェネツィアの建物』(Arsenale Editrice、Marzo 1998)より
  1. 2012/05/19(土) 00:02:05|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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