イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

芸術書に表れたヴェネツィア――ジョン・ラスキン

ジョン・ラスキン(1819.02.08ロンドン~1900.01.20ブラントウッド)が『The Stones of Venice(Le pietre di Venezia)』(全3巻)を世に出したのは1851~53年のことです。日本語訳『ヴェネツィアの石――建築・装飾とゴシック精神』(内藤史朗訳、宝藏館、2006年10月20日)を読んでみました。
ジョン・ラスキン『ヴェネツィアの石』伊語版『ヴェネツィアの石』[日本語版と伊語版の『The Stones of Venice』。日本語版のカバーに使われている写真は、パーリア橋の頂上に立って総督宮殿を見ると目の前の宮殿右角、海側から運河側にかけて彫刻があり、ノアが大洪水以後、葡萄栽培を始め、葡萄酒を痛飲して酔った時の場面の一つ、《ノアの泥酔》も彫られています。旧約聖書《創世記》9章終わり近くに次の文言があります。《ここにノア農夫となりて葡萄園を植(つく)ることを始めしが、葡萄酒を飲みて酔ひ天幕の中にありて裸になれり。》と]
酔えるノア「ヴェネツィア史を通してのヴェネツィアの勝利と、その多くの時期でのヴェネツィアの安全は、個人の英雄的行為によって獲得された。国中を高揚させ、国を救った人物は往々にして一人の王(総督)であり一人の貴族であり一人の市民であった。そのことはその人物にとっても国にとっても大した問題ではなかった。

真の問題は彼らがもっていた名前とか、委ねられていた権力よりもむしろ、彼らがどのように訓練され、どのようにして克己したか、祖国に殉じたか、不幸に耐え恥辱を乗り越えたかであり、そして、ヴェネツィアが、その国によって投獄された人々の中から救世主を見出した時から、その国の子ども達の声が死との契約に署名するよう命じた時までの変化は何故起こったのかである。
……
これまで私がルネサンス風景画の評判を落とすような説を述べたとしても、いたずらに述べたわけではない。クロードとプーサンによって加えられた弊害は、アンドレア・パラディオとヴィンチェンツォ・スカモッツィとヤコポ・サンソヴィーノによって起こされた被害と比べれば、取るに足りない。
……
私はパラディオに頁を割くことはない。そんなことをしたら、悪罵に満ちた章が続いて読者は退屈するだろう。だが、初期の建築についての私の説明において、そのすべての主要な特徴であるさまざまな形態を、それらが古典趣味によって堕落させられてしまった形態と比較し、その結果において、没落の崖っぷちに立って、崖下の深さが見分けられるや、私は立ち止ざるを得なくなる。……」
[ラスキンは、ルネサンスは中世の宗教的な精神性が欠落して、堕落したものとして、私の好きなティツィアーノやアンドレーア・パッラーディオ、ヤーコポ・サンソヴィーノ等に触れるのも嫌だとしています。]

「ドゥカーレ宮殿は、真ん中が空いている四角形にほぼなっているのを、読者は挿絵図で観察できるだろう。宮殿の一側面は小広場(B)に、もう一つの側面は《奴隷海岸》(RR)にそれぞれ面している、第三の側面は《黒い運河》[Rio de Palazzo o de Canonicaのことでしょう]に沿い、第四の側面はサン・マルコ教会堂に隣接する。……」 [下図版、アルファベット記号は本文に対応]
総督宮殿図[《奴隷海岸》という訳語は、Riva degli Schiavoni の Schiavoni(スキアヴォーニ)を schiavo(奴隷)としてのことでしょう。『ヴェネツィア語辞典』には Schiavon(単数―Schiavoni 複)=Illirico(イリュリア人)とあり、イリュリア人は紀元前バルカン半島西部に定住したスラヴ系人で、古代ローマ軍の武将になった者もいたそうです。19世紀半ばクロアティアに起こった“イリュリア民族再生運動”が知られています。クロアティア、ダルマツィア等の人達は、イリュリア人の後裔と考えられ、長身でがっしりした体躯のため、船漕ぎや戦士として優秀で、多くの人がヴェネツィアにやって来たと思われます。そうした中に、マルコ・ポーロの一家も入るのでしょう。
しかしヴェネツィアは、バルカン半島のスラヴ人海賊をアドリア海等で捕虜にし、奴隷(schiavoという語はスラヴ(slavo)から来ているという)としてオリエントに売却もしていた歴史があるので、この schiavon の語源に関連しているそうです。Schiavoni について『伊和中辞典』(小学館)は、スラボニア地方のスラヴ人とし、「サン・マルコ広場に隣接するこの海岸通りは、古くダルマチアの船員がそこで貨物を陸揚げしたことから名付けられた」とあります。ヴェネツィア語では、S'ciavoni(スチャヴォーニ)とも言うそうです。]

「今や宮殿自体の外観と配置の大ざっぱな観念を得るために話を進めることとしよう。だが、その配置図は、《海の面》《運河の面》の概念を得るためと、内庭を見下ろすために、海に面するその正面の潟海のある地点から上空へ約150フィート昇ったと想定してみれば、よりよく理解されるだろう。

挿絵㊲図はそのような眺望を混乱を避けるために屋根上のすべての細部を省略して大ざっぱに粗描したものである。この挿絵で私達が気づく必要があるのは、右に見える二つの橋の内、黒い運河の挿絵の上方の橋は《溜息の橋》(DS)で、下方のは《藁の橋》(PP―ラスキンの命名)であり、この運河は桟橋から桟橋へと定期的に船によってつながれた、水路の大通りであるということである。

この橋の上方に聳えている宮殿の角隅(そこは《海の面》と《運河の面》が出会う角である)は《葡萄の角隅》と称される。なぜなら、それはノアの飲酒の彫刻によって装飾されているからである。宮殿の反対の角隅は、人間の堕落の彫刻が飾られているから、《イチジク(木)の角隅》と称される。

長く狭い建物の列――その屋根がこの角隅の背後に見通される――は小広場に面した宮殿の一部である。列の端の二つの小尖塔の内、左側の小尖塔の下の角隅は、やがて述べられる理由のために《審判の角隅》と称される。建物によって形成される四角い空間の内部に内庭と二つの井戸の一つも見られる。これは小さくて趣きが風変わりなルネサンス期の建物――これは左下方へ傾いている《巨人の階段》に面している――によって行き詰まりになっている。 ……」
  ――『ヴェネツィアの石』(ジョン・ラスキン著、内藤史朗訳、宝藏館、2006年10月20日)より

[《溜息の橋》は、ラスキンは Antonio da Ponte が造ったと書いています。更にその訳注に訳者は《ダ・ポンテの名前は、ponte は“橋”であるから、橋建造の功績によって付けられた。》と述べています。Ponte Capriasca 出身(ヴェネツィア生まれの説も)のアントーニオ・ダ・ポンテは、石製のリアルト橋を完成させた(1591)ことで有名ですが、アンドレーア・パッラーディオのレデントーレ教会の建立に協力し、パッラーディオ没(1580)後教会を完成させています(1592)。訳者の言う、橋建造の功績による命名なら1591年以後の名前です。それ以前はどういう名前で活躍していたのでしょうか?
溜息の橋アントーニオ・ダ・ポンテ像[右、アントーニオ・ダ・ポンテ像。イタリアのダ・ポンテのサイトから借用]  ダ・ポンテ案がスカモッツィに勝ち、総督宮殿の運河側に隣接して新しい牢獄建設が始まりますが、リアルト橋工事の手助けもした、ルガーノ出身のダ・ポンテの甥のアントーニオ・コンティーンが、新牢獄と総督宮殿を結ぶ運河上の橋の設計・建設(1595~1600)をすることになります。“Ponte dei Sospiri(溜息の橋)”は《正義》[四枢要徳の一]の浮彫りと時の総督マリーノ・グリマーニ(在位1595~1605)の紋章で飾られます。橋の命名者は誰なのか、気になります。この橋が世界に知られるようになったのは、バイロン卿が詩に歌ってからだそうです。カナレットが建物の間にちらりと描いた1700年代は世界にはまだ名は知られていなかったようです。]
  1. 2012/07/21(土) 00:01:31|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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