イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアを撮影した映画(2)

ヴェネツィアが決定的に印象づけられた映画はルキーノ・ヴィスコンティ監督の『ベニスに死す』でした。塩野七生さんの『海の都の物語』と共に、この街を訪ねてみたい気にさせられた最右翼です。そんな気持ちになっていた1990年、NHKがテレビとラジオでイタリア語講座を始めました。講座を視聴しながらその思いが嵩じました。
ヴィスコンティ映画祭ベニスに死す(1)ベニスに死す(2)ベニスに死す(3)映画祭パンフレット。タッジオを求めて《タッジオを求めて》の新聞記事
トーマス・マンの原作『ヴェニスに死す』はトリエステからアドリア海を経て、ヴェネツィアの正面玄関口サン・マルコ小広場へ到達する設定になっていますので、この中世以来の正統のヴェネツィア入り、どうすれば映画のように船でサン・マルコ小広場に直接着岸出来るかに大変拘りました。
ブローデル著『都市ヴェネツィア』ですから初めてのヴェネツィア行を企図する者にとっては、『都市ヴェネツィア』(岩崎力訳、岩波書店、1986年8月11日)の著者、地中海学者フェルナン・ブローデルの、「……ラグーザ(ドゥブロヴニク)からの小さな船で。妻と私は眠りこんでいたので、朝まだき目をさました時、船はすでにドガーナ・ダ・マールの埠頭に接岸していた。……」の遥か上級の行動様式や、あるいはまた映画『旅情』はオリエント急行でヴェネツィア入りする設定ですので参考には出来ませんでした。

2009.09.12~09.19日に書いた―《文学に表れたヴェネツィア――トーマス・マン―で、船で直接サン・マルコ小広場に至った経緯を書きました。映画で船がサン・マルコに接岸するまでのバックグラウンド・ミュージックとしてグスタフ・マーラーの交響曲第5番4楽章のアダージェットが流されます。You Tube で―《Morte a Venezia―、また『タッジオを求めて』の―Alla ricerca di Tadzio―をどうぞ。

ヴェネツィアに行くようになってビデオ屋さんを探し回り、ヴェネツィアを撮った映画を借りてきました。アト・ランダムに挙げてみます。先ず英米映画では『赤い影』(ニコラス・ローグ監督)、英国人がヴェネツィアでおどろおどろした不気味な体験をする怨霊映画ですが、ヴェネツィアが美しいです。
『迷宮のヴェニス』(米人ポール・シュレイダー監督)は、早川書房から出た『異邦人たちの慰め』(イアン・マキューアン著、宮脇孝雄訳、1994.03)を映画化したもの。この結末も恐ろしい。

『ベルボーイ狂想曲』(マーク・ハーマン監督)は、マニーン広場から路地奥に入った所にあるコンタリーニ・デル・ボーヴォロ館の、有名な螺旋階段での追っかけっこがあったりする楽しいドタバタ喜劇です。
『リトル・ロマンス』(ジョージ・ロイ・ヒル監督)は、小さな恋人達がヴェネツィアにやって来て、溜息の橋の下をゴンドラで潜りながら、自分達の恋を誓います。
『鳩の翼』『鳩の翼』(イアン・ソフトリー監督)は、原作者のヘンリー・ジェイムズのヴェネツィア好きをそのまま反映して、稀に見るヴェネツィア賛歌の映画です。カーニヴァルで狂ったように踊り回る庶民達の熱狂を撮して、ヴェネツィア好きでなければ撮れない映画と合点しました。サンタ・マリーア・フォルモーザ広場での撮影でしょうか。2009.04.04~04.11日の―《文学に表れたヴェネツィア――ジェイムズ(1)(2)―にこのジェイムズの『鳩の翼』のことなどを書きました。

『世界中がアイ・ラヴ・ユー』(ウッディ・アレン監督)は、ニューヨーク以外では映画を撮ることは殆どないと言われている監督が、ヴェネツィアで楽しそうにカメラの被写体になっていました。ジュリア・ロバーツとのコラボレイションです。彼は1996年1月29日炎上してしまったフェニーチェ劇場でジャズ・コンサートをする予定でしたが、劇場炎上で別の場所での公演になりました。彼が公演の収益からラ・フェニーチェ再建のために多大の寄付をしたことは知られています。

『ヴェニスの商人』(マイケル・ラドフォード監督)は、シャイロックがアル・パチーノで大変楽しく、面白く見ました。しかし2010.07.10日の―《文学に表れたヴェネツィア――シェイクスピア》―に書きましたように、シェイクスピアの描くヴェニス人は商人としては愚か過ぎ、世界に冠たるヴェネツィア共和国を作り上げたヴェネツィア商人としては落第生だと思われます。

20年近く前、初めてヴェネツィアのゲットに行った時、人気はなく、住んでいるユダヤ人も10家族以下という話でした。最近はゲット広場も賑やかになり、キッパを被った黒尽くめの男性の姿をよく見かけるようになりました。この町からユダヤを世界に発信している感じです。例えばスペインは財産収奪目的で、1492年ユダヤ人を国から追い出しましたが、ヴェネツィア共和国は1516年、逆の経済目的でユダヤ人の定住を公式に認めた国です。他にも例えばフェッラーラにユダヤ人が定住することをウルバヌス8世が認め、1624年《ゲットー》に閉じ込めます。フェッラーラにユダヤ人が住み着いた記録は1275年に遡るそうです。

最近2011年3月に見たスリラー映画『ツーリスト』(フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク監督)では、ヴェネツィアの色々の際立った景観を勝手に繋げて映画編集をしているので、実際の道順には繋がりません(大抵の映画がそうです)が、逆にクロスワード・パズルの絵解きをする面白さが発生します。その回答を得るにはもっともっとこの街を歩き、目に風景を刻印しなければならないと自戒しました。
ジャン=フィリップ・トゥーサン『浴室』『浴室』(仏人ジョン・ルヴォフ監督)は、白黒の奇妙な印象が残った映画です。バスタブに住みついた男がある日バスタブを出ると、何故かヴェネツィアに行く不思議な物語です。映画の印象は『本当の話』(ソフィ・カル著、野崎歓訳、平凡社)の中の《ヴェネツィア組曲》のような味わいです。原作はジャン=フィリップ・トゥーサンの『浴室』(野崎歓訳、集英社文庫、1994年11月25日)で、彼は自作『ムッシュー』『カメラ』(両著、集英社文庫あり)を自ら監督して映画化しているそうです。
年下のひと『年下のひと』(ディアーヌ・キュリス監督)は、アルフレッド・ド・ミュッセとジョルジュ・サンドのヴェネツィアでの恋を描いたものです。2009.11.12~12.19日に―《文学に表れたヴェネツィア――サンドとミュッセ(1)(2)》―と2010.12.11日にも―《ジョルジュ・サンド》―を書いています。そちらも参考にして下さい。
月曜日に乾杯!仏映画『月曜日に乾杯!』(オタール・イオセルアーニ監督)は、突如仕事も家庭も放擲して旅に出た主人公はヴェネツィアに向かうのです。
逢いたくてヴェニス独映画『逢いたくてヴェニス』(ヴィヴィアン・ネーフェ監督)は、夫の浮気相手の旦那を引っさらい、2人の子供も連れて、浮気者達が居るはずのヴェネツィアに乗り込みます。ヴェネツィアがよく描かれている映画でした。
幸せになるためのイタリア語講座デンマーク映画『幸せになるためのイタリア語講座』(ロネ・シェルフィグ監督)は、趣味で伊語を学ぶ仲間達が友好のためにヴェネツィア観光をすることになり、恋人達はこの地で結ばれます。

[近年運河を疾走するモーターボートが活躍する映画(『ミニミニ大作戦』という題名だそうです)もあったようですが、見ていません。また『オックスフォード オペラ史』(ロジャー・パーカー編、大崎滋生監訳、平凡社、1999年3月25日)の文中に「……スタンリー・キューブリックの映画『バリー・リンドン』(1975)での、ロウソクに照らされたヴェネツィアのカジノのシーン……」とあり、映画を見てみましたが、蠟燭の明かりの中でのギャンブルのシーンはヴェネツィアではなく、アルプスの北の町のお城のようでした。]
  1. 2012/04/21(土) 00:04:36|
  2. ヴェネツィアに関する映画
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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