イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

鷗外の『獨逸日記』から

森鷗外の『獨逸日記』[『鷗外全集』第三十五巻(岩波書店、昭和五十年一月二十二日)]に目を通すように勧められ、読んでみました。

鷗外は津和野藩亀井家の典医の家系出です。蘭学者、医学者、教育者の緒方洪庵には7男6女があり、洪庵の息子の惟準(これよし)(第4子次男)や收二郎(第13子六男)らと友達であったことがこの日記から分かります。

「十五日。家書至る。石黑緒方兩軍醫監の書も亦至る。小山内建、淸水郁太郎の病歿、緒方收二郎の結婚を知る。……」(明治十八年四月十五日)

「二十日。……始て獨逸國軍醫總監兼侍醫ラウエル Lauer と相見る。白頭にして鬚髯なし。軀幹長大、面痩せ顋(あご)出ず。其動作略々緒方惟準に肖たり。……」(明治十九年二月二十日)

そしてヴェネツィアに夭折した緒方家第10子五男の惟直(これなお)のことについて次のようなことが書かれています。鷗外がライプツィヒからミュンヘンに移り、ペンテンコオフェルについて衛生学を学んでいる時です。

「十五日。長沼守敬伊國ヱネチヤ Venezia より來る。余問ひて曰く。君伊國に在りしならば、必ず緒方惟直君の事を知るならん。僕の東京を發するや其舍弟にして僕の親友たる收二郎より、惟直君の墳墓のことを聞き、僕の足其地を躡()むことあらば必ずこれを弔せんと約したり。願くは其詳なるを語れと。

長沼の曰く。惟直君の墳墓は予の領事館[館の正字はPCにないので代用]の吏輩と議して建つる所なり。其地はチミテロ、サン、ミキエル Cimitero St.Michiell [伊語 Cimitero di S.Michele]と曰ふ。業成る後之を日本に報じたりしが、果々しき返事も無し。惟直と惟準とは何如なる親疎の關係あるにか。墳墓は兎まれ角まれ、困難なるは惟直君の遺胤の事なりと。

余驚き問ひて曰く。遺胤とは何如。長沼の曰く。惟直君はこれを日本政府に秘したれども、伊太利の一女子と宗門上立派なる結婚の式を行へり。旣にして一女兒を擧ぐ。今母と共に存す。

惟直君の歿するや、母子若干の遺金を得たり。而れども是金も亦盡[立偏に旁、盡の字]きたれば、窮困の狀見るに忍びず。遺子の面貌は太だ惟直君に似たりと。

余長沼に問ふに母子の居を以てす。曰く。家の番號などは記せざれどプゴ橋 Ponte di Pugno [サン・バルナバ広場の拳骨橋(ponte dei Pugni―複数形)]といへる橋を渡り、牧生女 Leratrice の家を問ふべし。母子此に寓せり。

然れども君其貧苦の狀を見ば、必ず盤纏(ばんてん―旅費のこと)を輕くするならんと。日本人の歐洲に在りて兒を生ませしは、獨り惟直氏のみならず。……」(明治十九年七月十五日)
 ――『鷗外全集』第三十五巻[『獨逸日記』(明治十七年十月十二日~明治二十一年五月十四日)](岩波書店、昭和五十年一月二十二日)より

こういう日記を読むと大変身近なことに感じられます。長沼守敬(もりよし)はヴェネツィア王立商業高等学校第二代日本語教師だった緒方惟直の後、第四代目の日本語教師としてヴェネツィアで彫刻を学びながら日本語を教えた彫刻家でした。サン・ミケーレ島の墓地にある惟直の彫刻された美しい墓石は彼の手になる物だそうです。長沼痛恨のミスは、惟直を維直と勘違いし、生年(1853年)を1855年と刻んでしまったことでしょう。

[長沼守敬は御雇(おやとい)外国人の一人、日本の紙幣や印紙等の印刷の指導をしたエドアルド・キオッソーネにイタリア語を学び、明治14年、第3代駐日イタリア公使ラッファエーレ・ウリッセ・バルボラーニ伯爵{バルボラーニについては2010.02.06日のイタリアと日本との関わりで触れました}が勤務を終えて帰国の際、同行してイタリアに渡り、ヴェネツィア王立美術研究所で Luigi Ferrari や Antonio Dal Zotto らに彫刻を学びながら日本語を教えたのだそうです。長沼の在伊時代の活動については石井元彰著『ヴェネツィアと日本――美術をめぐる交流』(ブリュッケ社、1999年10月23日)が詳しいです。サン・バルトロメーオ広場の『カルロ・ゴルドーニ像』は、アントーニオ・ダル・ゾット作。]
『ヴェネツィアと日本』いずれにしても、惟直が住んでいた場所は有名な《拳骨橋》の近くらしいと思われます。ヴェネツィアで長い間絵を描いておられた別府貫一郎画伯は、彼のアパートを突き止められたそうで、ヴェネツィア観光をした日本人が画伯に案内されてその建物を見たと書いておられました。画伯の案内でNHKも取材し、何十年か前放映されたそうです。

緒方惟直のサン・ミケーレ島の墓地について2010.08.14日文学に表れたヴェネツィア―パウンドとサン・ミケーレ島等に書きました。
墓地地図緒方惟直の墓墓の在所は、略図左上隅区画の2°(第2チェゼーナ)内の右下壁です[略図は右下の教会方向が北です]。墓地入口は以前は11°Emiciclo[教会]の建物前にヴァポレット停留所がありましたが、現在は同側右上に変わっています。入って直ぐ左に事務所があります。

鷗外のこの日記を読むと次のような興味深い事がありました。
「……ダンテ Dante の神曲 Comedia は幽昧にして恍惚、ギヨオテ Goethe の全集は宏壯にして偉大なり。誰か來りて余が樂を分つ者ぞ。」(明治十八年八月十三日)と、『卽興詩人』(1892~1901)の翻訳の前に、鷗外は既に『Divina Commedia(ヂヰナ・コメヂア――鷗外表記)』を『神曲』と訳していたのです。

ダンテはこの作品を『Comedia(コメディーア)』としていたのだそうですが、ヴェネツィアで1555年に出版された時、『Divina Commedia(ディヴィーナ・コンメーディア)』と《神の divino/a》の語が追加され、爾来この Divina+の表記が踏襲されているそうです。ヴェネツィアを世界に冠たる印刷出版王国にしたアルド・マヌーツィオ(羅典式 Aldus Pius Manutius――1449バッシアーノ~1515.02.06ヴェネツィア)等から40年経たこの頃も、いまだ世界に冠たる出版王国の時代だったということでしょうか。

[鷗外の日記は正字・旧字で書かれ、PCには之繞など点が一つの漢字しかないなど正字・旧字が少ない上に、誤記等もあるやも知れず引用は中途半端です。]
  1. 2012/06/16(土) 00:07:29|
  2. | コメント:2
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コメント

参考になります、ありがとう

鴎外日記をいま読んでます。
参考になります。記事にびつくりしました。
別府画伯も知人の父上です。
イタリア滞在聞きましたが、鴎外関連は未聞です。
ではまた
  1. 2014/04/12(土) 05:13:42 |
  2. URL |
  3. 山彦          #x0stmR2c
  4. [ 編集 ]

山彦さん、コメント有難うございました。
鷗外の『獨逸日記』を読むと、もしかして彼は長沼守敬の案内で
伊国を巡りたかったのでは、と思ったりしました。こんな古い日記が
何か身内の事でもあるかの如く、鷗外が大変近しい人に感じられました。
日記の魔力でしょうか。
別府貫一郎さんについては2008.05.30日と2011.10.15日でも
触れています。彼の姪御さんがママさんだった新宿の風紋は、昔
随分お世話になりました。
  1. 2014/04/12(土) 14:21:43 |
  2. URL |
  3. ペッシェクルード #/plE8HKU
  4. [ 編集 ]

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Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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