イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの建物: グリマーニ館(2)

(続き)
「アントーニオは1434年に生まれた。彼は父が庶民の女と結婚したため、他の貴族と比べると不如意な状態にあった。その事で彼は頼りになる家族関係という恩恵に与っていなかった。その上一家は貧乏暮らしだった。

しかし活発な知性を柔軟に駆使して豊かになっていき、ロレダーン家の娘との間に生まれた息子ドメーニコに、枢機卿帽を保証する3万ドゥカートの巨大な額を工面出来るまでになった。当時の年代記に書かれたことは、商人達は《グリマーニが売ると売り、売り控えると売り控えた。彼のやる事なす事全てが幸運を指し示していたからである……。彼が手にした土地もゴミさえも黄金になった。》と。
……
艦隊司令長官時代、スルタン・バヤジト2世(sultano Bajazet Ⅱ)のトルコ軍との戦闘で、レーパントを失う結果(1499年)に終わった。そしてヴェネツィアはその失敗を許さず、彼を裏切者として糾弾し、流罪にした。しかしその後、名誉が挽回されて呼び戻され、1521年には正式に総督宮殿の門を潜った。

彼の総督時代はフランス王フランソワ1世と皇帝カール5世の紛争のため特に困難だった。彼らの戦場がイタリアだったからである。しかし総督は、非常な能力を発揮して、セレニッシマに対して危険が及ばないように彼らと等距離を保つよう努めた。

息子のドメーニコはアクイレーイアの総大司教になった。彼は大文化人にして、文芸・学術の大保護者であり、サンタ・マリーア・フォルモーザのグリマーニ館に収められた骨董品や芸術品の収集家であった。
[2010.03.20日にサンティ・ジョヴァンニ・エ・パーオロ劇場で書きましたように、フォルモーザ広場のグリマーニ館は修復なって、現在見学出来るようになっています。先日BS朝日で《ヨーロッパ路地裏紀行――ベネチア・ジュッファ通り》というTV番組がありましたが、このグリマーニ館はフォルモーザ広場からこのジュッファ通りに入って直ぐ左の奥です。
またここの一家は、サンティ・ジョヴァンニ・エ・パーオロ(1635)、サン・サムエーレ(1655)、サン・ジョヴァンニ・グリゾーストモ(1677)、サン・ベネデット(1755)の各劇場を建てたことでも知られています。サン・サムエーレ劇場傍のマリピエーロ通り(Cl.Malipiero)にはカザノーヴァが生まれたことを示す碑が掲げられ(母親ザネッタも父もこの劇場の舞台にも立っています)、劇場所有者ミケーレ・グリマーニが彼の実父だと言われています。]
ヴェネツィア地図フォルモーザ広場のグリマーニ館は、《G3》の広場東の外れ。グリマーニ館脇道グリマーニ通りどん詰まりのグリマーニ館
箱に納められた『グリマーニの聖務日課』『グリマーニの聖務日課』10月の仕事[サイトから借用] 一家の分家は19世紀には消滅してしまったが、書籍の豊富な図書館を所持しており、彼が《グリマーニの座右の書(聖務日課書)》と呼んだ金泥写本は有名である。[右《10月の労働》挿図]
……
どこの家族にもあるように、この一家にもあまり褒められないことがあった。というのは1658年共和国は、色々罪を犯した兄弟2人を追放したことがあった。彼らはヴィンチェンツォ・グリマーニとマリーナ・カレルジの息子で、母親所有のヴェンドラミーン館に住んでいた。年代記作者の判断では、グリマーニ兄弟の手に負えない粗野な性格は、母親譲りのものであったに違いない、と。

実際、クレタ島から来た裕福なカレルジ家には、1400年代ジョルジョという名だたるはぐれ者がいた。彼は海賊行為にのめり込んでいたのである。海上でピエートロ・ロレダーンに逮捕され、ガレー船の艫(とも)で処刑されるのに、一般船員達の前を嫌がり、公務の役人達の面前での処刑という貴族に許される特権を要求した。

実際、共和国はグリマーニ兄弟を追放したのみならず、庭に面した館(ヴェンドラミーン・カレルジ館)の翼の部分を取り壊させたということで、悪名の烙印を押したのである。2人の追放者の一人である聖職者のヴェットーレは、辛辣な詩句でその刑に仕返しをした。
 Anca mi so qualcosa in materia de corni(私もまた総督帽に関しては何ものかであったのだ)
 che in 'sto mestier go speso e bezzi e giorni.(この職にお金や日時を浪費した)
 Ma dentro a quel Consegio ghe ne e` de giovani e vechi(しかしあの大議会の中には老いも若きもあって)
 che se lor mi han bandito, mi li ho fati bechi.(彼らは私を追放し、私は彼らを山羊(コキュ)にしてやった)
[ヴェンドラミーン・カレルジ館(現在市営賭博場)の翼は、17世紀初頭にヴィンチェンツォ・スカモッツィにより大運河に面した庭を包み込むように大きな翼が作られたのですが、兄弟達の犯した罪により総督府により取り壊しが命じられました。しかしその後間もなく、無名の建築家により現在見るように、飾らない簡素な形で再建されたのでした。]

しかしながらカンディア(クレタ島)戦争が勃発し、莫大な戦費が掛かることとなり、共和国はなり振り構わず出来るだけの金を掻き集めなければならず、それ故《もし自分を追放地から呼び戻してくれるなら、私のお金で丸一ヶ月に200人の兵士を戦場に送り込めるぞ》というヴェットーレの提案を政庁が受け入れ、彼は故郷に帰還出来た。

グリマーニ家は大金持ちではあったが、大変簡素な生活振りだった。事実、国の異端裁判所のスパイであったペドリーニ神父は1787年に報告している。グリマーニ財務官は元老院に登庁前、非常に質素な朝食をした。立ったままポレンタ1切れを食べた、と。……」
 ――『大運河』(E.& W.Eleodori著、1993)より
 
[トウモロコシの粉に水を加えて火に掛け、練り上げた polenta 料理は、かつては特に北イタリアの貧しい庶民の主食だったそうです。イタリア南部の人は北部人を悪く言う時、polentone(ポレンタ喰らい=のろま)と吐き捨てるそうです。ルイージ・コメンチーニ監督の映画『パンと恋と夢』(ロロブリージダとデ・シーカ主演)の中でも、ヴェーネト出身の若い巡査を tonto(間抜け)と揶揄していました。
それは伊語のようにメリハリのある、撥ねるような発音と異なって、ずるずると引き摺るように聞こえるヴェーネト方言故かも知れません。polenta は、ヴェネツィア語では母音間の“l”は無音のことが多いので《ポエンタ》と発音するかも知れません。脱皮したばかりの柔らかい甲羅の蟹 mollecca(伊語)は、moleca となり、発音はモエーカ(moeca とも綴る)です。またヴェネツィア語の schila(小蟹)も s-chie`(スキエ)と複数形で使うようです。gondola は、ゴンドヤと聞こえます。]

現在この館は la Corte d'Appello(控訴裁判所)となっています。控訴裁判所とは、第二審を扱う、日本で言う高等裁判所のことで、民事の控訴院と刑事の重罪控訴院があるそうです。
  1. 2012/06/30(土) 00:02:25|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
  3. | コメント:0
<<ヴェネツィアの建物: グリマーニ館(3) | ホーム | ヴェネツィアの建物: コルネール・ヴァルマラーナ館(P.Coener Valmarana)とグリマーニ館(P.Grimani)>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

カウンタ

カレンダー

05 | 2017/06 | 07
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -

プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手知ったヴェネツィアを先ずは訪れて、各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

最近の記事+コメント

カテゴリー

ブログ内検索

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

リンク

このブログをリンクに追加する

過去ログ

フリーエリア