イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの建物: グリマーニ館(3)

この館について G.ロレンツェッティ著『ヴェネツィアとその入江』(1926)は次のように述べています。
『ヴェネツィアとその入江』「古典精神で造形された、霊感に満ちた巨大建築である。ヴェローナの建築家ミケーレ・サンミケーリの傑作である。16世紀前半にサン・マルコ財務官ジローラモ・グリマーニのために建てられたが、1561年にはまだ完成を見ておらず、サン・ルーカ教区のグリマーニと呼ばれたこの一家の邸宅であったのは1806年までで、その年には国家財産となり、郵便局所在地となった。」

一方 R.ルッソ著『ヴェネツィアの建物』(1998)は次のような事を述べています。
ヴェネツィアの邸館「伝説ではグリマーニの若者が、ほぼ真向かいにある館に住むテイエーポロ[グリマーニ館の左前方、艦隊司令長官に許される2塔の obelischi という方尖塔が聳えるコッチーナ・ティエーポロ・パパドーポリ館がそれ]の娘に恋をして求婚した。しかし彼の願いはその父に次のように言われて断られた。《Non sara` mai dito vero che mi daga la man de mia fia a un despara` che no ga gnanga palazzo in canal.(大運河に館さえ持たぬ文無しに娘を嫁にやるなんて儂は金輪際言わないぞ)》と。
コッチーナ・ティエーポロ・パパドーポリ館コルネール・マルティネンゴ館とグリマーニ館[グリマーニ館の高さはティエーポロ館の方尖塔の頂きの高さであり、2階の窓はティエーポロ館の玄関より大きい]
この腹立たしい返答の後、グリマーニ家は大運河に館を造らせた、それもティエーポロ館の表玄関門よりも遙かに大きな窓を備えた館である。そして基礎工事には他のいかなる館のそれよりも有効な、高価な木材を使用したのだと言われている。
……
サン・マルコの財務官であり、騎士[《サン・マルコの騎士》と称される家は、元来コンタリーニ、クェリーニ、モロジーニの3家だったそうです]であったジローラモ[o Gerolamo]・グリマーニのための建物であったが、彼はミケーレ・サンミケーリの着想に全てを委ねた。サンミケーリはパッラーディオのオリジナルの設計に基づいた案で進めた、というのはこの土地の前所有者コンタリーニが投資の事を考え、あるいは簡単にその土地の有効利用のためにその試案を以前にパッラーディオに注文していたからであった。建設は1561年に始まり、1575年に終わったが、その時にはサンミケーリは既に亡くなっていた。[サンミケーリ没(1559)後は同僚のジョヴァンニ・アントーニオ・ルスコーニの手で完成]

大運河に向いたファサードは、凱旋門に似つかわしい豪華な催し事のために、予め建築家が用意したかのようである。1576年マントヴァ公らが招かれ、サンソヴィーノが書き残しているように《夥しい黄金と宝石で全身を着飾り》[『Venetia citta nobilissima et singolare(いとも高貴にして特異なる都市ヴェネツィア)』]、そして白一色に装った、市でもとびきりに美しい貴婦人が100人も参加した栄誉あるパーティが催された。

しかし最高に豪華な宴は、総督マリーノ・グリマーニの妻、モロジーナ・グリマーニ総督夫人戴冠の折に祝われた。1597年5月4日、十人委員会の面々、60人の元老院議員は総督宮殿秘書官・書記官らに随伴され、グリマーニ館へブチントーロ船で向かった。

館ではオフィシャルの官吏達は、大階段を昇り、総督夫人に招かれた2階に到着した。《厄介者と渾名された紳士達(“i detti Signori dell'incommodita` presa”)》がお礼を述べた後、モロジーナ・グリマーニは総督としての決まり――約束、義務、責務の全箇条――を誓約した。そして総督府の参事や書記官長らに黄金の7つの財囊と彼女の肖像入りのメダルを贈った。それから船で総督宮殿まで導かれ、到着するや、歓迎会と祝宴が始まった。

総督夫人の戴冠は全イタリアに感動を呼び、クレメンス8世は《黄金の薔薇(Rosa d'Oro)》を彼女に贈った。それはサン・マルコ寺院の宝物庫に遺贈されることになる。
[《金のバラ》は、カトリック教会に特に貢献した人に教皇が贈る、薔薇の花樹を模した黄金の彫像だそうです]

こうした引き継ぎと祝宴の後、サン・マルコ湾で《イギリス戦艦の盛大な模擬戦》が行われ、ヴェネツィア人の最たる喜びの、幾つかのレガッタが行われた。

共和国滅亡後、建物はオーストリア政府の取得するところとなり、郵便本部の所在地となった。1866年ヴェネツィアがイタリア王国に併合された時、グリマーニ館は控訴裁判所となった。」

[上記『ヴェネツィアとその入江』の《1561年》という年号が何を指しているか分かりません。前々回に紹介した『大運河』はこの建物の建築開始を《1556~57年》としています。『ヴェネツィアの建物』は《1561~75年》の間の建築とし、PC のイタリアのサイトでは《1556年》や《1557年》等があります。些細な問題ですが、どれを選ぶべきでしょうか。それ以外にも総督夫人の贈り物の表現が区々です。]
  1. 2012/07/07(土) 00:01:54|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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