イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの建物: クェリーニ・ベンゾーン館(2)、とピエートロ・ブラッティ

「ピエートロ・ブラッティは良家の生まれの風格がある。ボローニャ出身の家柄で、ヴェネツィアで1772年10月13日に生まれた。18歳から30歳まで父親の銀行で働いた。

ラシーヌの『エステル』[1689年の聖書に基づく悲劇]のあるヴァージョンの版を出版した。続いてホラティウスの数多くの頌歌、カトゥルスのいくつかの荘重体叙情詩、方言でエウローパ・ディ・モスコの叙情詩、更に市民的気高い感情で生き生きと詩的にも成功した沢山の詩、特にナポレオンの理不尽な奪略行為に対する、勇気ある告発の書である『ヴェネツィア総督の嘆き』の訳業がある。
Pietro Buratti『Elefanteide』Pietro Buratti『Poeta Libertino』ピエートロ・ブラッティのヴェネツィア語詩『エレファンテイデ――象の真実の物語』と『放蕩詩人』
トレヴィーゾのゼーロ・ブランコの農場に長く住み、更にヴェネツィアとトレヴィーゾ間の台地上にあるサンブゲのヴィッラに移り住み、そこで1832年10月20日没した。放蕩的青年時代が欠点であるが、放蕩を知らない、あるいは放蕩的でありたくない青年とは、いかがなものか。

彼は良き文学者として、その事を彼なりに理解し、生真面目な沢山の詩以外に、淫らな詩を残している。そんな詩でマッフィーオ・ヴェニエールからジョルジョ・バッフォに至るヴェネツィアの文学的伝統にあるエロティックで猥褻な詩の系列に並ぶのである。
ジョルジョ・バッフォの家バッフォ小広場サンタ・マリーア・マッダレーナ Giorgio Baffo『Sonetti licenziosi』[左から、ヴェネツィア語で書いたエロティック大詩人ジョルジョ・バッフォが住んだ家に掲げられた碑。少年時代のカザノーヴァの世話をした彼の住んだ家は、サン・マウリーツィオ教会右直前のベッラヴィーテ=ソランツォ=バッフォ館(16世紀半ばの古典様式建築)の壁面にその旨を記したプレートが貼ってあります。その右は、バッフォの名前を冠したカステッロ区の《バッフォ小広場》、更に右、カンナレージョ区の、円形という特徴あるサンタ・マリーア・マッダレーナ教会は1222年バッフォ家によって建立されたそうですが、一族はこうした区域に分散していたのでしょうか。そして彼の詩集『淫蕩なるソネット』。2011.04,16日に書いたヘルマン・ケステン(1)もご参照下さい。]

しかし言っておかねばならないのは、ブラッティは他のヴェネツィアのエロティック詩人達が甘美なる猥褻さを表現出来た、その軽妙さや優雅さといったものを持ち合わせていないことである。彼の詩は、特にというより偏に卑猥である。

しばしば怒りが籠もっている。マリーナ・クェリーニ・ベンゾーンを激しく告発するのはこの種の詩句である。彼女は彼の友人であった、と思われる。ヴェネツィアに来れば彼女に会いに行った、いつから2人の友情が始まったかは分からないが。
……
彼女はこれらの詩を読んだだろうか。この告発の前で、寛容に微笑みを浮かべ、面白がったと考えられるか。一方彼はそれを執筆するに当たってどんな激しい怒りを秘め隠していたか。告発の真偽はともかく、それを明白にするのは難しい。全く嘘っぱちで、非常に悪意のある卑猥な誇張とも言える。

二番目の告発は、彼女がその必要性は丸でないのに、それにのめり込まざるを得ない事由があって、売春に勤しんでいたというものである。

ここにまことに重大で、しかし残念ながら信用出来る話がある。この告発の原告側証人は、空想的で愛するが故に失望落胆した詩人ではなく、数多くいた情報提供者の一人である秘密諜報員(カザノーヴァも一時この種の人間だった)で、それはヴェネツィア政府が庶民の動向を監視するために市の至る所に配置していたものである。報告書は全て『1700年代(1705~97)のヴェネツィアの秘密諜報員』で、ジョヴァンニ・コミッソによって言及された。諜報員の姓名はアンジェロ・タミッツォ。

《貴族ピエーロ・ベンゾーン氏(N.H.)の妻マリーナ・クェリーニ・ベンゾーン夫人(N.D.)》は、パレルモ出身のダーヴィド・ラ・ロッカとかいう《女衒を生業としている》男の仲介でテアートロ・ア・サンタンジェロ小広場の住人キアーラ・グラツィアーニ夫人と知り合った。
《前述のダーヴィドは、女達をいわゆる外国人ハウスへ案内し、外国人は楽しみ、たっぷりと支払った、と一般に言われている……。その近所でロッカが彼女達を取り持ち、かの貴夫人(N.D.)をそのハウスで娼婦として斡旋した。夕方彼らが国へ帰るには丁度いいということでもないが、外国人達は一人のヴェネツィアの貴夫人を充分に楽しんで彼女に支払ったとも言われている。》

マリーナ・クェリーニに関する現代の伝記作家ティツィアーノ・リッツォは、ネロの母アグリッピーナの事を思い起こしながら告発の証拠を示し、Giovenale の証言を引用している。
……
最後に大変有名なカンツォーネ、ラグーナで今日でも歌われている舟唄『La biondina in gondoleta』について。これは同時代人で、ニーナ(Marina の愛称)のファンであった詩人アントーン・マリーア・ランベルティが彼女に捧げたもの。彼はブラッティよりもデリケートで、優しく、しっかりした詩人だった。

曲はバイエルン生まれでヴェネツィア人の養子になった、優れた作曲家ヨーハン(ヨハネスとも)・ジーモン・マイヤー[Johann Simon Mayr――イタリアでは Giovanni Simone Mayr(ジョヴァンニ・シモーネ・マイル)で、ベルガモでガエターノ・ドニゼッティの師としても有名]である。 ……」
  ――ブルーノ・ロザーダ著『ヴェネツィア女達(Donne veneziane)』(Corbo e Fiore Editori)より
ブルーノ・ロザーダ『ヴェネツィアの女達』この本にはこの舟唄のヴェネツィア語の全歌詞が掲載されています。歌はYouTubeの次のサイトで聞くことが出来ます。La biondina in gondoleta。ヴェネツィアに行かれたら、是非現地で聞かれますように。一番だけ転写します。
La biondina in gondoleta   (金髪美人をゴンドラに
L'altra sera g'ho mena`;   (昨晩、連れていったのさ、
Dal piaser la povereta    (愛しい彼女は嬉しくて
la s'ha in bota indormenza`. (直ぐに眠ってしまったよ。[in bota=伊語subito]
……
いずれにしても彼女の全盛時代は、言わばヴェネツィア人の maga 的存在で、子供達に授乳するような優しさで18世紀のヴェネツィア人の意気を高揚させるような魔術的な魅惑を醸し出した存在だったようです。
  1. 2012/09/01(土) 00:04:01|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
  3. | コメント:0
<<《自由の木(L'Albero della Liberta`)》 | ホーム | ヴェネツィアの建物: クェリーニ・ベンゾーン(Querini Benzon)館(1)>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

カウンタ

カレンダー

08 | 2017/09 | 10
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

最近の記事+コメント

カテゴリー

ブログ内検索

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

リンク

このブログをリンクに追加する

過去ログ

フリーエリア