イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

アントーニオ・ヴィゼンティーニ(Antonio Visentini)(1)

2007.11.10日に書きましたHotelや2009.10.24日に書きましたヴェネツィアと日本との関わりで触れましたように、アントーニオ・ヴィゼンティーニ(1688.11.21ヴェネツィア~1782.06.26ヴェネツィア)について知ったのは、ヴェネツィアの語学学校に通っている時、偶々知り合った仏人、本の修復師ベア(Be'atrice)がアパートの自室に持ってきていた、仏国で出版された大部の浮世絵本の中で、歌川豊春が描いた大運河の絵を指し示して教えてくれたのです。

以後の経緯を再確認してみますと、その本では神戸市立美術館蔵となっていたので、帰国してから電話するとこちらでは常設展示していないので国立東京博物館に尋ねるようにと言われ、東博に問い合わせるとやはり常設していないのでアダチ版画研究所を推薦されました。

赤坂のアダチを訪ねると、当時の技法で覆刻再版した、豊春の正にその『浮絵 紅毛(ヲランダ)フランカイノ湊万里鐘響図』がありました。その浮絵がヴィセンティーニ(Vicentini)の版画を元に描かれたものであることを教わり、イタリア文化会館の図書室で Vicentini について調べてみました。

文化会館で大部の美術辞典を繙きましたが、Vicentini は見当たらず、発想を変え、Visentini(ヴィゼンティーニ――ヴェネツィアでは濁音)を引くとありました。読んでみると、カナレットの veduta(都市景観画)をエッチングに蝕刻した版画家でした。
カナレットの元のスケッチ大運河とサンタ・クローチェ教会ヴィゼンティーニの『浮絵 紅毛(ヲランダ)フランカイノ湊鐘響図』[左から、カナレットのデッサン、その完成画(カナレットの甥ベルナルド・ベッロットの絵?)、更にヴィゼンティーニの銅版画、それを歌川豊春が浮絵(prospettiva)の勉強のために模写したようです。]

翌年再びヴェネツィアの語学学校に通学した時、妻がベアから語学学校のあるサンタ・マルゲリータ広場の一角の骨董屋を教わったというので行ってみました。訪れてみると沢山のヴィゼンティーニの版画の中に《それ》がありました。店主の話では、今ではヴェネツィアには彼の版画はほとんどなく、これらは北の国から探してきたものだとのこと。《それ》があったのは僥倖でした。その用紙にはヴェネツィアを意味するのでしょうか《SV》の字が大きく透かし文字で入っています。

店主のオジさんは気さくな人で、孫が丸でヴェネツィア語を話さないのでまことに残念だ、とか、この版画の紙は麻が材料で、新しい麻の材料では繊維が硬すぎて紙になりにくく、使い古した麻の布、古着から布巾の類までが meglio(beter) で、そうした使い古しを買い集めて回る職業もあった、など話してくれました。その上店の資料に置いてあったヴィゼンティーニの大きな版画集を好きなだけコピーするようにと、一見の日本人に気軽に貸してくれたのです(サン・ルーカ広場に今でもコピー屋さんがあります)。遠い外国の地でこんなに信用されたのは初めてのことでした。

後年ヴェネツィアの書店で、ヴィゼンティーニがカナレットの景観画を模刻したこの全版画を集めた、版画集の本が販売されているのを知り、購入しました。『Le prospettive di Venezia――Dipinte da Canaletto e incise da Antonio Visentini』(Grafiche Vianello srl/VianelloLibri)です。
ヴィゼンティーニについての本   カナレットの碑ペリーナ小広場のカナレットの生家[右写真2点、カナレットが生活した家はリアルトからサン・マルコ広場に向かうサン・リーオ大通り(Salizada S.Lio)のサン・リーオ教会を通り過ぎ、右の軒下通りの脇道から入ったペリーナ小広場(Ct.Perina)にあります。カナレットの絵画は次のサイトでどうぞ。Canaletto。]

ヴィゼンティーニについて、『ヴェネツィア人物辞典(I personaggi che hanno fatto grande Venezia)』(Marcello Brusegan著、Newton Compton Editori、2006.11.)は次のように言っています。
『ヴェネツィア人物事典』「メルキオッレの息子。絵画の師はアントーニオ・ペッレグリーニ。ロザルバ・カッリエーラとは義兄弟である。建築家、画家、美術アカデミーでは遠近法の教師、本の挿絵画家。エッチング(腐食銅版画)の名手であり、収集家であった。

彼の大グラフィック・アート『Urbis Venetiarum Prospectus Celebriores ex Antonii Canal tabulis XL. Aere Expressi ab Antonio Vicentini』[Vicentiniのc は、誤植でしょうか?]は、彼の版画家として名は記憶されるべきものであり、カナレットの有名なヴェドゥータ(都市景観画)の数々を収めたその作品群は、1700~1800年代を通じて度々再版された。それは光り輝く、曇りなきヴェネツィアのイメージを世界に流布したし、今日においても然りである。芸術家というより有能な遂行者であり、翻訳者と考えられ、しばしば過小評価されたが、当時のヴェネツィアにおいて特筆すべき役割を担っていた。
ミアーニ・コレッティ・ジュスティ館ミアーニ・チェレッティ・ジュスティ館、カ・ドーロ マンジッリ・ヴァルマラーナ・スミス館[左、カ・ドーロ左隣のヴィゼンティーニ建築のミアーニ・コレッティ・ジュスティ館(現在、右隣のカ・ドーロと共にフランケッティ美術館になっています)。中央はその絵。右、リアルト野菜市場真向かいの彼の建築になるマンジッリ・ヴァルマラーナ・スミス館、最上階はフェニーチェ劇場を建てたジャン・アントーニオ・セルヴァが増築したそうです。]

事実、イギリス領事ジョゼフ・スミスとの関係があり、彼のためには建築家として仕事をした(上掲の写真のように大運河に邸館を建築)し、パスクァーリ出版のためには挿絵画家として活躍、サン・マルコ寺院についての重要な研究を導入(それは1726年『Iconografia della ducal basilica dell'evangelista Marco』として出版)し、フランチェスコ・グィッチャルディーニが1738~39年に出版した全20巻の『Della Istoria d'Italia』という非常に洗練された挿絵集もある。

フレスコ画家としても、ヴィチェンツァのヴァルマラーナ・アイ・ナーニ館の客室(1757)、ノヴェンタ・パドヴァーナのグリマーニ館(1777)に作品がある。

93歳で没。80歳代に全財産を鷹揚に寄進してしまったために極貧の中での死であった。サン・カッスィアーノ教区に葬られた。彼が集めた大コレクションは死と共に失せてしまった。」

次のサイトAntonio Visentiniでヴィゼンティーニ作品をお楽しみ下さい。
  1. 2012/10/13(土) 00:03:41|
  2. | コメント:0
<<アントーニオ・ヴィゼンティーニ(2) | ホーム | ヴェネツィアの建物: Casa Tornielli から Palazzo Corner Gheltof まで>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

カウンタ

カレンダー

09 | 2017/10 | 11
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -

プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

最近の記事+コメント

カテゴリー

ブログ内検索

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

リンク

このブログをリンクに追加する

過去ログ

フリーエリア