イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの建物: 新モチェニーゴ館(1)

コルネール・ゲルトフ館から大運河を更にサン・マルコ方面に遡上しますと、4軒が隣合った同じ一族の、左から新モチェニーゴ館、モチェニーゴ館、古モチェニーゴ館が並んでいます。先ず写真中央右の建物が新モチェニーゴ館です。
コルネール・ゲルトフ館、新モチェニーゴ館一族の分家の《カーザ・ヌオーヴァ》と呼ばれるこの建物は、元々ゴシック様式の建物だったそうですが、1579年頃、多分アレッサンドロ・ヴィットーリアの設計により建て直されたそうで、バルビ館との類似性が指摘されています。ファサードはイーストリア(イストラ半島)石、中央部はアーチと三角形の破風によるセルリアーナ式窓(ヴェネツィア風窓)です。二つの大きな大理石の紋章が2階両脇にあります。
モチェニーゴ館2番目3番目の建物は1500年代末、新・古モチェニーゴ館の間に建築されたモチェニーゴ館で、双子のように同形の建物が並んでいます。中央部はセルリアーナ式で窓の上部にはそれぞれ彫刻が施されていますが、元々はベネデット・カリアーリ[ヴェロネーゼの弟]とジュゼッペ・アラバルディのフレスコ画で飾られていたそうです。

4軒目、一番右の建物は、《カーザ・ヴェッキア》と呼ばれ、1623~25年フランチェスコ・コンティーンによって建て直されたそうです。内部の中庭にその面影を残すゴシック様式の建物で、中央部は五連窓、窓の背丈が高いのが見てとれます。Raffaella Russo『ヴェネツィアの館』(1998)はこれらの建物を次のように(1~3)紹介しています。

新モチェニーゴ館  一族はミラーノ出身で、共和国に数多くの将軍や大使、サン・マルコ財務官そして7人の総督を輩出した。トンマーゾ・モチェニーゴは、1395年トルコ軍を打ち破った。ピエートロは1400年代後半に、オリエントやギリシア海岸を掃討して回った。ラッザロは1617年、オスマン・トルコの艦隊を撃破し、ダーダネルス海峡を抑え、コンスタンティノープルを攻撃中、戦死した。アルヴィーゼ(3世)の総督在任中、最後のブチントーロ船が建造(1727)された。それは各種の儀式の折、特に海との結婚式の時、総督が使用した素晴らしいガレー船である。

教皇アレクサンデル3世が1177年、《花婿に従う花嫁のような海であるように》との吉兆を込めて、金の指輪を総督に贈ったのであった。キリスト昇天の祝日にリードから外洋に出た所で、聖水一杯の壺を先ず海に投げ、その後総督は次のような厳かな言葉を発し、指輪を海に投げる。《おゝ海よ、汝と結婚する、永遠の、真の支配の印として(Ti sposiamo, o mare, in segno di vero e perpetuo dominio.)》
コルネール・オ・デル・マガゼーン通りから新モチェニーゴ館へ新モチェニーゴ館入口[Corner o del Magazen 通り奥の新モチェニーゴ館入口]  この館はアレッサンドロ・ヴィットーリアの建築とされ、元々あったゴシック建築の上に1500年代の建物が建てられた。19世紀後半にこの一族が消滅するまで、モチェニーゴの所有であった。」
  1. 2012/12/01(土) 00:02:35|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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