イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

モチェニーゴ家(4)

モチェニーゴ家はヴェネツィア名門貴族40家の内、後で加わった《新しい家系》16家の内の一つだったそうですが、そのモチェニーゴ一族から総督になった、トンマーゾ(1414~23)、ピエートロ(1474~76)、ジョヴァンニ(1478~85)、アルヴィーゼ1世(1570~77)、アルヴィーゼ2世(1700~09)、アルヴィーゼ3世(1722-23)、アルヴィーゼ4世(1763~79)の7人の内、代表して一人だけその生涯を述べてみます。
『総督ジョヴァンニ・モチェニーゴの肖像』[ジョヴァンニ・ベッリーニ画『総督ジョヴァンニ・モチェニーゴの肖像』。昨年の『ヴェネツィア展』で来日] ジョヴァンニ・ベッリーニが描いた『肖像画』で有名なジョヴァンニ・モチェニーゴ(1409頃ヴェネツィア~1485.09.14ヴェネツィア)について、『ヴェネツィア人物事典(I personaggi che hanno fatto grande Venezia)』(Marcello Brusegan)から訳してみます。
『ヴェネツィア人物事典』「第72代総督。故アンドレーア・ヴェンドラミーンの跡を継いで、1478年5月18日70歳の時、国の最高職に選ばれた。レオナルド・モチェニーゴとフランチェスカ・モリーンの2番目の息子で、総督ピエートロ・モチェニーゴの弟であり、総督トンマーゾ・モチェニーゴの孫である。

総督宮殿の門をくぐることになる血族関係は重要で、色々な可能性を秘めていた。何故なら政治家としての前歴はレベルがそれほど高くなく、議会の長老職と外交官職に就いただけで、総督職に就くためのサン・マルコ財務官には任命されたことがなかったからである。

こうした理由で、第8回目の開票で25ポイントの賛成票を得てのこの選出は、驚きを引き起こした。しかし同時代人が書き記しているように、《穏やかで自由闊達、如才ないが正義の人》であるとして、好意をもって受け入れられた。

ジョヴァンニ・モチェニーゴの総督期間は、大変難しい時期であった。その初年、既にしてトルコとの戦争という重大な局面に対面しなければならなかった(ヴェネツィアにとって非常に厳しい条項となった平和条約に1749年1月25日サインをすることになった)。そして猖獗を極めたペストの襲来があり、妻タッデーア・ミキエールが感染して亡くなった。

しかし新総督は引き続き、更に困難な問題に立ち向かわねばならなかった。それは他のイタリアや諸外国がヴェネツィアの領土をますます不審の目で見始めたという、軍略的地勢の問題だった。

あらゆる関心が、イタリアの地勢的モザイク模様に注がれており、ヴェネツィアの拡張主義が恐怖を呼んでいた。火花一つで、敵意が破壊的に勃発するやも知れなかった。戦争を引き起こすのは、教皇庁の家臣であるエステ家のエルコレ1世のフェッラーラとの繋がりをヴェネツィアがどうするかに係っていた。

時はヴェネツィアに有利に傾いていた。教皇シクトゥス4世はヴェネツィアを敵視しておらず、仇敵のジェーノヴァさえスフォルツァの軛を脱して自由になったばかりで、彼らは同盟を結んだ。しかしヴェネツィアが軍を進めるや、スフォルツァ軍、メーディチ軍、マントヴァ軍、ナーポリ王の軍隊が戦場に出てきた。

一方教皇は、そんな同盟から急いで離れようとしていた。というより1年後の1482年、反ヴェネツィア同盟に加わった。そして教皇は共和国を破門するまでになり(1483)、アラゴンのフェルナンド[伊語ではフェルディナンド]1世を介して、何と!トルコに直接介入するようにとまで企みさえした。

まさに大変な難局に直面していた。敵の包囲網を切り崩す必要があった。ヴェネツィアの外交交渉大作戦が始まり、フランスに援助を求めた、先ず最初ミラーノ公国に権利を有するシャルル・ドルレアンに、次にアンジョイーニの相続者としてナーポリ王国に権利を有するフランス王シャルル8世に。

そうした交渉事は、イタリアの地に外国の軍隊を呼び込む危険性があったものの、結果は良好であった。1484年8月7日休戦条約が署名され、ヴェネツィアは最終的にポレージネ[ポレジーネではありません]を得たのである。

ジョヴァンニ・モチェニーゴは1483年9月14日から、総督宮殿の大火事のため、宮殿を後にしなければならなかったし、1485年9月14日には多分ペストのため亡くなり、そのためサンティ・ジョヴァンニ・エ・パーオロ教会に大急ぎで葬られた。」

モチェニーゴを冠する建物はヴェネツィアに沢山あるようです。例えばサン・ポーロ広場西隅の、コルネール・モチェニーゴ館は現在は財務警察の建物[サン・ポーロ運河を挟んで対岸のアマルテーア(Amaltea)小広場から美しい姿が望めます――2009.06.06日に書いたウィリアム・ロルフが住んだ館でもあります]ですし、サン・スターエ教会裏のモチェニーゴ館は現在、1700年代の華麗な貴族の館の例として一般公開されています。私も初めて訪れたその後、偶々次のオペラをここの大広間[座席150?ほど]で見たことがありました。
『Serva Padrona』のポスターこのペルゴレージの幕間劇『奥様女中』鑑賞直後、門の外に貼ってあるポスターを旅の記念に貰っていいか、と係員に尋ねると、館内の破れていないのを持って行きなさい、と頂戴しました。
  1. 2012/12/22(土) 00:01:01|
  2. | コメント:2
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コメント

モチェニーゴ家

斜体の文
ヴェニスの貴族、モチェニーゴ家について
たいへん参考になりました。

 ブレヒトの散文作品にでてきて、気になっていたものですからね。
  1. 2013/03/20(水) 00:44:55 |
  2. URL |
  3. HERR SOMMER #the4VZXc
  4. [ 編集 ]

HERR SOMMER さん、コメント有難うございます。
ブレヒトについては殆ど知りませんが、かつて『ガリレオ・ガリレイの生涯』を
俳優座劇場で見たことがあります。
ヘンデルのイタリア・オペラをロンドンから駆逐したジョン・ゲイの『乞食オペラ』
を範にとって書いた『三文オペラ』が、クルト・ヴァイルの有名な曲と共にブレヒト
のことを思い出させます。
  1. 2013/03/20(水) 11:28:49 |
  2. URL |
  3. ペッシェクルード #-
  4. [ 編集 ]

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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手知ったヴェネツィアを先ずは訪れて、各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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