イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの建物: コンタリーニ・ダッレ・フィグーレ館(P.Contarini dalle Figure)

モチェニーゴ館の右隣はモチェニーゴ通りを挟んで、コンタリーニ・ダッレ・フィグーレ館です。ファサードは三つの部分に分けられ、イーストリア(イストラ半島)石による建築で、2階の中央は三角形のペディメントを乗せた四連窓です。エレガントな浅浮彫りが両脇の二つの窓の間の壁面を飾っています。
古モチェニーゴ館[右、コンタリーニ・ダッレ・フィグーレ(デッレ・フィグーレとも)館]  R. ルッソ著『ヴェネツィアの建物』(1998)は次のような事を述べています。[この本は《C.dalle F.》ではなく《C.delle F.》としています]

「2階ピアーノ・ノービレの装飾の自然主義者的特徴、品格のある武具を際立たせる銅材、木の幹で支えられた戦勝記念品類、そうした物の存在が、ジョン・ラスキンが憂鬱な調子でこの邸宅について語る時、それは宜なるかなと思わせる。それはこの芸術家がゴシック芸術の消えていこうとする自然主義のイメージを我々に教えようとしているかのようだからである、《……秋が来た。緑なす樹葉は落葉していく……ルネサンスの氷結が到来したのである。全ては死滅する》。[ラスキンはゴシック主義者で、ルネサンスを嫌悪したそうです。]

ラスキンの考え方とは、それ以前に存在していたゴシック様式の建物の上に、調和に満ちたファサードの建物が1504~46年に再構築されたのだが、そうしたこととは対立する。設計はスカルパニーノと通称されるアントーニオ・アッボンディであり、自然主義という装飾的要素、マニエリスティックな彫刻、中央四連窓を立ち上げるティンパヌム等は、スカルパニーノのルネサンスの各種の文化的特徴を覗かせている。

館の名前は、主となる露台下に置かれた二つの彫刻から来ている。よく知られた伝説によれば、ある極く普通の人物が賭博で、妻を含めて全財産を失い、絶望のあまり怒髪天を衝く姿を表すもので、もう一つの彫刻は怒り狂った妻の姿であるという。
[この挿話は G.Nissati がG.タッシーニの『ヴェネツィア興味津々』から抽出した『Aneddoti storici veneziani』の中にあり、情報源は『ヴェネツィア興味津々』だと知れました。]

この館について記憶されている事は、有名な研究者であったヤーコポ・コンタリーニと特に繋がっている。彼の興味は、芸術から植物学まで、建築から数学にまで及んでいた。彼の絵画の収集品にはバッサーノ、ティツィアーノ、ティントレット、パルマ・イル・ジョーヴァネ等の作品が含まれており、図書室には科学の本、古い寺院、アーチ、数学で使用する用具のデッサン等があった。更に庭園には、各種の熱帯植物が植えられていることで有名であった。

建築界での知り合いとして、アンドレーア・パッラーディオとの友情は貴重である。パッラーディオはヴェネツィア滞在時、ほとんどいつもこの館に宿泊し、1570年には永続的にここに越してきたのである。建築の設計図がコンタリーニ館に大量に残された。そして今日ではロンドンの、英国王立建築研究所に保管されている。

フランスのアンリ3世のヴェネツィア訪問時、ヤーコポは歓迎の組織委員会の任務を託された。パッラーディオにリード島の真向かいに Settimio Severo(セッティーミオ・セヴェーロ)の凱旋門[ローマのフォーロ・ロマーノにあるセプティミウス・セヴェ(ウェ)ルス帝の凱旋門]にヒントを得た凱旋門を、ティントレットにはブチントーロ船に王の肖像画を描くよう注文した。
ガブリエール・ベッラ『アンリ3世の入市』パッラーディオ設計のアンリ3世歓迎門[左、ガブリエール・ベッラ画『アンリ3世入市時の歓迎の模様』、右、リード島正面に設えたアンリ3世歓迎の、パッラーディオ設計の歓迎門と歓迎ポルティコ]

1577年元老院は大議会の間と投票の間に掲げる絵の企画を彼に委ねたが、大火のために焼失した。
『エウローパの略奪』[総督宮殿のヴェロネーゼ画『エウローパの略奪』]  最後の相続人ベルトゥッチ・コンタリーニは1712年亡くなった。芸術作品は総督宮殿に運ばれた――その中にはヴェロネーゼの有名な『エウローパの略奪』がある――そして建物は共和国政府の所有となった。

次いで19世紀、邸館はグイッチョリ侯爵の所有となった。バイロン卿の最後の大恋愛の相手となった、有名なテレーザの夫であるアレッサンドロ・グイッチョリの一族の建物である。館は今日個人の所有となり、アパートとして分割されている。」
  ――ラッファエッラ・ルッソ『ヴェネツィアの建物』(1998)より
『岩倉使節団とイタリア』『ヴェネツィアと日本』左の本(1997年刊)を読むと、1873年5月ヴェネツィアに設けられたイタリア最初の日本領事館は《パラッツォ・グィッチョーリ》に設置され、その館はバルナボ館[現在通常マリピエーロ(or カッペッロ・マリピエーロ・バルナボ)館と通称されている]というサン・サムエーレ教会の大運河沿いの右隣の建物としています。右の本(1999年刊)は最初の日本領事館をこのコンタリーニ・デレ・フィグーレ邸としていますが、やはり《グイッチョーリ》家と書いています。
『DOP発音辞典』しかし『Dizionario d'Ortografia e di Pronunzia(DOP発音辞典)』(ERI studio Edizioni RAI)にあるように、あるいは又次のサイトTeresa Guiccioliにもあるように“イ”にアクセントがあり、グイッチョリ(Guiccioli)のようです。

私は2000年語学学校通学のため隣の古モチェニーゴ館でアパート生活をしながら、明治の領事館員はここで1年足らずで領事館がミラーノに移動するまでの間、コンタリーニの有名な庭園を眺め勤務していたのではないかと、ドアの隙間から庭を窺いながら思ったことでした。
  1. 2012/12/29(土) 00:02:44|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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