イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

文学に表れたヴェネツィア――エズラ・パウンド(3)

エズラ・パウンドの傑作の誉れ高い『ピサ詩篇』(新倉俊一訳、みすず書房、2004年7月15日)を読みました。沢山登場する固有名詞など殆ど知らなくても、今まで読んだことのある詩集と異なって読み進める内に、何故か気持ちが奇妙に高揚していくのを実感しました、どんな雄叫びでも悲嘆でも、御意であれ冀念であれ何事も素直に声を顕わにして歌うべきなのだと。そんな中で突如ヴェネツィアが登場します。
パウンドサイトから借用。『ピサ詩篇』ページ
「 [第七十六篇]
……
大運河は少なくともわれわれの時代までは続いた
  たとえ「フロリアン」の店が装いを変えたり
また広場にある店が辛うじて
    人工呼吸で息を続けたり
《ジョリオの娘》のために
    ダヌンチオのカリカチュアを収めた
    (《小島の海(ラグネス)のエディポス》という題のついた)
    特製本を出したにしても
……
      二つの翼をもつ雲の下で
      ほとんど一日じゅう
サン・ヴィオが大運河に交わる
きれいに洗われた石柱のそばで
あのバンコ・サルヴィアティともとドン・カルロスが住んでいた家①とのあいだで
いっそ潮の流れに投げすててしまおうか
    『灯火は消えて(ア・ルーメ・スペント)』の詩集を
          そしてトダロ②の円柱のそばで
  いっそ向こう岸に渡ろうか
        それとも二十四時間待っていようか

      あの頃は自由だった、そこがちがうのだ
      あの大きなゲットーにはかつて見苦しかったところに
《ファシストの時代》の新しい橋が架かっている
      ヴェンドラミン宮殿、コントラリーニ③家
       あのフォンダ、フォンダコ・デイ・トルチ④
    そしてトゥリオ・ロムバルド⑤があの人魚たちを彫ったのだ
      年老いた番人が言うように「それ以来
宝石箱にだれも人魚たちを彫ることができなくなった」
  サンタ・マリア・デイ・ミラッコリ⑥のことだ
あのカルパッチオの骸骨の絵が納まっている
         ⑦
         サン・ジョルジオ・デイ・グレチ⑧
そして広場に入ると右手の洗礼盤に
    サン・マルコの金色のドームがみな映っている

幸福をもたらす蜘蛛よ、そのテントの縄に糸をつむげ

ブラシッタロ⑨の僧院でのジョージ・ティンカム
  「ヴォイ・ケ・パサーテ⑩・ペル・クェスタ・ヴィア」
  (その通りをゆくお方よ――)
  ダヌンチオ⑪はこの辺に住んでますか?
アメリカの婦人、K・Hがきいた
  「知らないね」ヴェネチアの老人が答えた
      「このランプはマリアさまのためでさ」⑫
  「ノン・コンバッテーレ⑬」とジョヴァンナは言った
  あんまり無理しなさんな、という意味だ
……
  [第八十三篇]
……
サン・グレゴリオ、サン・トロヴァーゾ
いくつもの栄光のあと あのジョヴァンニは七十歳で競技し
      とうとうしまいには勝った
一族の眼は同じアドリア海に
      三代も耐え抜いた(サン・ヴィオ⑭)
先月はいつものように救世主の祭り(レデントーレ)があったはずだ

もういちどあのジュデッカ運河をみる日がくるだろうか
  またはそれにきらめく明かりを、フォスカーリ⑮宮や、ジュスティニアン宮や
世間の言う《デズデモーナ⑯の家》を?
糸杉がいまはないあの二つの塔を
    ザテーレ⑰通りの先に停泊しているボートを
それにセンサーリアの北側の埠頭などを? (ダクリュオーン) 涙(ダクリュオーン)  ……」
 ――『ピサ詩篇』(新倉俊一訳、みすず書房、2004年7月15日)より

[ヴェネツィア好きの私には、①~⑰と丸数字で印を付けた所はこうして欲しいという願いです。  ①ブルボン家のドン・カルロスが住んだ家はサン・ヴィーオ広場から Rio de S.Vio の対面ロレダーン・チーニ館と《注》に欲しいところ。  ②トダロの円柱について。伊語 Teodoro の別名に Todaro、Todero、Totero があり、ヴェネツィアではピアッツェッタのサン・テオドーロとかサン・トーダロの円柱等言うそうです。パウンドは原文ではToderoと書いています。  ③パウンドはコンタリーニをコントラリーニと誤記したのでしょうか。コンタリーニ家は1000年代から8人の総督を出した名家です。  ④原文のFondechoはフォンダコ(ヴェ語=fontego)と思われますが、Tedeschi(ドイツ人商館)とTurchi(トルコ人商館)と二つあります。何故訳者はTurchi(トゥルキ)を選び、トルチと誤読したのでしょうか。
 
⑤原文は Tullio Romano なのに、トゥリオ・ロムバルドとした理由は?   ⑥サンタ・マリア・デイ・ミラーコリだと現地語(伊語)。  ⑦原文にない1行あき、ますます意味が不鮮明になるこの一行あきの意味は?  ⑧カルパッチョの骸骨の絵はサン・ジョルジョ・デッリ・スキアヴォーニ同信会館にあります。原文は Dei Greci, S.Giorgio, the place of skulls~ですから、訳は「サン・ジョルジオ・デイ・グレチ、カルパッチオの骸骨の絵のあるサン・ジョルジオ・デッリ・スキアヴォーニ~」と並列になるのではないでしょうか。  ⑨ブラッシータロと読みたい。  ⑩パッサーテとすれば伊語として通じます。
 
⑪ガブリエーレ・ダンヌンツィオは大きなコルネール・デッラ・カ・グランダ館の左隣のカジーナ・デッレ・ローゼ、またの名はカゼッタ・ロッサ館に第一次大戦中の1915~18年(この本の注は1920年です)住んだそうです。  ⑫原文は aged Veneziana ですので老女です(男は誤訳です)。それ故台詞は女言葉に変更しなければなりません。  ⑬コンバッテレとすれば伊語です。  ⑭セイント・ジョージ福音教会があるサン・ヴィーオ広場にパウンドが住んだという記録を探しています。セイント・エリザベス精神病院からの解放後、少し離れたフォルナーチェ運河から入ったクェリーニ通りのオルガ・ラッジの家に住むことを、彼が選んだことは知られています。[追記=最初スクェーロ(ゴンドラ造船所)向かいのサン・トロヴァーゾ運河傍に部屋を借り、その後セイント・ジョージ・アングリカン教会の斜向かいのサン・ヴィーオ運河脇861番地に住んだようです。オルガと住む以前のことです。] 

⑮フォースカリあるいはフォスカリ。  ⑯伊語デズデーモナ、英語デズデモーナ。「世間の言う」とはヴェネツィア人のことでしょう。  ⑰原文Zattereですから、ザッテレ海岸通りです。パウンドが愛して住み、亡くなった、ヴェネツィアの町はヴェネツィア式に発音したいものです。]
エズラ・パウンドの碑《ヴェネツィアに対する決して消えることのなかった愛の中で、詩歌の巨人エズラ・パウンドは半世紀に渡ってこの家に住んだ ヴェネツィア市》。 前ヴェネツィア市長・哲学者マッシモ・カッチャーリさん[来日され一ツ橋の如水会館での講演を聴講したことがあります]がその墓前で語るエズラ・パウンドを、YouTubeでどうぞ。Massimo Cacciariです。

2010.08.07~14日に書いた文学に表れたヴェネツィア――エズラ・パウンド(2)に記した伊語訳の詩の中に、e sulla fronte a destra entrando とある箇所のパウンドの原文は、《右の洗礼盤》の意ですから、e sul fonte a destra~となるに違いありません。fronte は前の意、fonte は洗礼盤(男性名詞)、泉(女性名詞)です。

次のサイトでキャントーズの原文が閲覧出来ます。Cantos
尚、サイトエズラ・パウンドと能の191~193ページで、パウンドと能とヴェネツィアについての大変興味深い話が語られています。ご一読下さい。
  1. 2013/01/05(土) 00:02:38|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
  3. | コメント:0
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは十数年前。ヴェネツィアには即一目ぼれ。
その結果、伊語勉強のためにヴェネツィアの語学学校に何年間か数ヶ月通いました。
その後もヴェネツィアを訪れるたび、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら書くのが楽しいのです。

*図版はクリックすると拡大されます。

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