イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの地震

2009年に大被害をもたらしたラクイラ地震の直前、安全宣言をしたために人的大被害が生じたとして、行政官2名、科学者5名が昨年10月禁錮6年の実刑判決を受けたことはまだ記憶に新しいことです。地震に安全宣言を出すなど不用意が過ぎると思いますが、その学者の態度に実刑判決を下す裁判というのは、それもあまりにも行き過ぎと思われます。

ジュゼッペ・タッシーニ著『ヴェネツィア興味津々(Curiosita` veneziane)』から、G.Nissatiが『Aneddoti storici veneziani(ヴェネツィア奇聞)』という本に色々話題を拾い出しています。その中に地震の話がありました。
ジュゼッペ・タッスィーニ『ヴェネツィア興味津々』『ヴェネツィア奇聞』[Nissati という筆名は Tassini の anagramma(字句転綴)のようです] 「ガッリッチョリが自分の『回想録』の中に記した、共和国時代に発生した地震は19回あったという。中でも1348年1月25日のものと1511年3月26日のものは最高に厳しいものであった。

1348年の時は年代記作者によれば、何千もの家屋や数えきれない煙突が崩れ落ちた。鐘は独り鳴り響き、大運河は水が一方の岸から他方へと何度も揺れ動いて川底が見えたりした。サン・シルヴェストロ、サン・ジョヴァンニ・エレモジナリオ教会の鐘楼は崩れ落ち、サンタンジェロとサン・ヴィターレ教会のクーポラ、カルミニ教会のファサードの上部が落下し、アルセナーレの二つのアーチも倒れた。

1511年の地震の時はもっと恐ろしかった。工場等の崩壊に加えて人的被害が加わった。この日元老院に集まった議員達は、議場の頭上がギーギー軋むのを聞き、慌てて逃げ出した。

サヌート(ヴェ語式―Sanudo)は言っている。《全員驚愕し恐怖にかられた。広場や道を走る人、お祈りを始める人、どうしていいか分からない人、そして多くの妊娠中の女性が恐怖のあまり、陣痛もなしに出産した。その中には艦長のトーマ・ティエーポロ氏の妻パンクラーティ・ジュスティニアーンの娘があった。》

その時点より少し前のこと、《それから夕方教区司祭達は、各地区で連禱行列を開始していた。2枝の燭台を携えた後ろの一団は手には蠟燭を持ち、連禱(リタニア)を唱えていた。その時見るからに手にしていた物が大揺れに揺れた。全員危険を察知した、何故ならこうした地震は何日か続くのが通弊だったからである。そしてその夜かなりの人々は船に、菜園に、畑に眠りに行った。地震が再度やって来ないなど、考えられなかったからである。》

翌朝貴族のアントーニオ・コンタリーニは政庁に現れ、これは我々が犯した色々の罪、特にヴェネツィア人が犯した数々の肉欲の罪のために天が懲らしめのために下した天罰なのだ、だから誠実かつ効果的な措置を講ずる必要があると言った。更に聖処女ニコペイアの像を掲げて、サン・マルコ広場で聖なる行列を執り行わねばならないと厳命した。」
  ――G.Nissati『Aneddoti storici veneziani(ヴェネツィア奇聞)』(Filippi Editore Venezia、1897)より
  1. 2013/01/12(土) 00:00:29|
  2. ヴェネツィアの災害
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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