イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアのアックァ・アルタ(2)

昨年暮、149㎝のアックァ・アルタがありました。イタリア・ウィキペディアによれば、アックァ・アルタ(高水・高潮)という言葉はヴェネツィア人が潮位が高くなる現象を言ったものが、伊語に取り込まれたものだそうです。近年は毎年のようにラグーナ・ヴェーネタ(ヴェーネト潟)に生起するこのアックァ・アルタ現象の原因を、ウィキペディアは凡そ次のように述べています。
サン・マルコでゴンドラを漕ぐこの地では毎日約12時間毎に干潮・満潮が1m程度の差で繰り返されています。この干満に第一に影響を及ぼす一つ、秋~春に南アフリカからシロッコ(季節風)が低気圧で吹き上がってくるのです。アドリア海入口のターラント海峡から海水をその強度と方向によって最奥部へ吹き寄せます。低気圧でも海面が上昇します。

10-11月イタリアでは豪雨を伴う嵐が吹き荒れることがしばしばで、各地の河川の氾濫が頻発し、北東部ではその大量の水がアドリア海に排出されますが、その頃北東風のボーラも吹き荒れ、それらの強風が排出された水をその強さと方向によっては最奥部の水の退潮を押し留めます。

また低気圧と共に、更に新月であれば太陽・月が一直線に並び、海水を引き上げます。こうした現象にラグーナ・ヴェーネタの閉じられた特殊な地形とが絡み合って、これらの現象が三役揃い踏みになるとアックァ・アルタが発生すると考えられているようです。

近年この現象が多発するようになったのは、対岸のマルゲーラの工業地帯が工業用水に地下水の汲み上げを何年も続け[何年か前に中止]、ヴェネツィア本島は地盤沈下したままであり、そこに地球温暖化のための海面上昇(eustacy 現象――伊語eustatismo)が拍車を掛けているのです。
ヴェネツィア人口推移『ヴェネツィア史』(クリスチャン・ベック著、仙北谷芽戸訳、白水社文庫クセジュ、2000年3月20日)の巻末表を参考にどうぞ。
サルーテ教会・税関岬近くに潮高を測る基準点が設置されており、サン・マルコ鐘楼傍にその値を電光掲示板に表示する設備がありました。そのポイントでの計測によりアックァ・アルタは3段階に分けられ、第1段階はサン・マルコ広場が海抜80㎝故なのか、80~109㎝(1897年に平均潮位として測定されたものから)。第2段階は110~139㎝。最高の第3段階は140㎝~。昨年11月4日の149㎝は最高位に区分されるものでした。次のヌオーヴァの新聞記事をどうぞ。時刻9.30には149㎝に達しています。La Nuova紙の、左のキャプションをクリックすると映像が見られます[上から3番目のキャプションはサン・マルコ広場で泳ぐ観光客のもの]。

ウィキペディアはかつてのアックァ・アルタがあった年を羅列しています。史上記録の劈頭を飾るのは、589年の《Rotta della Cucca(クッカの決壊)》のアックァ・アルタだそうで、Giovanni Distefano『ヴェネツィア史 421-1099』(Supernova)がその事に触れています。
ヴェネツィア史 421-1099「589年: パーオロ・ディアーコノ(Paolo Diacono)は『Historia Langobardorum』の中で、ヴェーネト地方の水路分布を変えてしまった壊滅的な大洪水(それは河川の保全管理がなされていなかった故でもあるのだが)について記述している。

ヴェローナ地方の地名でもある《クッカの決壊》のことである。それ以前にはエステからモンタニャーナを流れていたアーディジェ川がその流路を変え、そこから何㎞か南の地点を流れるようになり、その自然の痕跡が残っている。

年代記作者はこの北東地域やイタリア半島各地の記録された豪雨の模様について語っている。ノアの洪水時代にも増して起こったことであり、589年10月17日の大決壊とはなっているが、現代の研究者は11月の事ではなかったかとしている。

洪水で多大の人や動物の命が奪われ、ヴェローナの城壁が何ヶ所も壊れた。更に大小の道、ヴェーネトやフェッラーラ平野の畑の多くが破壊尽くされてしまった。ヴェローナでは洪水の高さは城外にあるサン・ゼーノ教会の上の窓にまで達した。

パードヴァではブレンタ川が集落の北東まで流路を変えたし、その流路がバッキリオーネ川に取って代わったのである。ピアーヴェ川は氾濫し、一部流路が変わった。ミンチョ川はアードリアを通過していたが、アドリア海からガルダ湖まで船で行くことが出来た。そして流路を変え、ポー川と合流してしまった。それがアードリアとこの港の決定的な没落をもたらした。

この地域が激しく分断されたために、どの地域の政庁もこの破壊の修復に取り掛かることが出来ず、水に沈んだ平野は何世紀も沼地・湿地と化し、事実ポレージネという地名はこの時に生まれた。」
 ――ジョヴァンニ・ディステーファノ著『ヴェネツィア史』より

当時はまだ現在のようなヴェネツィアは誕生しておらず、人々がラグーナの島に住み始めた頃だったようです[ラグーナに住む人々に言及した最古の、カッシオドルス書簡は538年]。洪水の水が全てラグーナに流れ込み凄い潮位で島々を全て水没させたに違いありません。

810年カール大帝の子ピピンの攻撃からヴェネツィアを救ったラグーナの浅瀬という地形を守るために、その後ヴェネツィアはラグーナに注ぐブレンタ、シーレ等の全ての河川はアドリア海に直接放水するように流路変えの工事を施し、ラグーナの陸地化を防ぎました。この工事はアックァ・アルタにはあまり関係なかったかも知れません。
[ヴェネツィア人は雨水を収集し、井戸で濾して飲料水にしていました。その井戸を塩水のアックァ・アルタが度々破壊しました。尚2008.10.26日のアックァ・アルタでアックァ・アルタの歴史について触れています。]
  1. 2013/01/19(土) 00:00:58|
  2. ヴェネツィアの災害
  3. | コメント:0
<<文学に表れたヴェネツィア―Roberto Bianchin、アックァ・アルタ(3) | ホーム | ヴェネツィアの地震>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

カウンタ

カレンダー

10 | 2017/11 | 12
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 - -

プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

最近の記事+コメント

カテゴリー

ブログ内検索

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

リンク

このブログをリンクに追加する

過去ログ

フリーエリア