イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

文学に表れたヴェネツィア―Roberto Bianchin、アックァ・アルタ(3)

サンタンジェロ広場(C.S.Anzolo)近くのアッサッスィーン(Assassini)通り傍のレストランで日本人の友人達と会食をした時、レストランのオーナーから下掲の本を書いたので日本人にも読んで欲しいと提供され、籤で私が貰えることになり、帰国して読んでみました。10年以上前のことでもあり、中身をあまり覚えていません。今回読み直してみました。
『Acqua granda』[Roberto Bianchin『Acqua granda―Il romanzo dell'alluvione(アックァ・アルタ―大洪水の物語)』(Filippi Editore Venezia、1996)] アックァ・アルタ史上有名な1966年11月初めの高潮は、194㎝という観測史上最高の数値を記録し、サン・マルコ大聖堂内にも水が侵入して多大の被害を与えました。聖堂内に入ってみると円柱を汚した水の跡が今でも視認出来ますし、聖堂内の地面は波打っています。その事が世界に発信されて注目され、《ヴェネツィアを救え》というキャンペーンが始まり、《The Venice in Peril Fund》が動き始めました。運動を始めたのはイギリスの駐伊大使 Sir Henry Ashley Clarke で、現在は母国ではなくサン・ミケーレ島墓地に眠っています。
[ヘンリー・アシュレイ・クラーク卿は1953~62年ローマの駐箚イギリス大使で、1966年のヴェネツィア被害を知ってこの Venice in Peril 慈善運動を始め、1983~94年、90歳で亡くなるまでこの財団の会長を務めました。]

この年の秋はイタリア全土大変な荒れ模様で、各地で洪水騒ぎが相次いだようです。トスカーナ地方も例外ではなく、氾濫が各地でありました。知り合ったフィレンツェのソーニア・アルフォンソ夫妻のお宅にお邪魔した時、1966年のアルノ川氾濫について、1階の壁面に残された背丈の染み跡を示されたり、3階の自宅窓から見下ろしている時の光景をアルフォンソさんから伺いました。彼らの Giotto 街に凄い速さで水が上がってきて向かいの建物の1階に設けられている駐車場に置かれていた車を建物から引きずり出して、奔流と共にどこかへ持ち去った、というのです。あっという間の出来事だったと言います。これが1966年11月初めのアルノ川の氾濫の一端です。多大の被害もたらしたそうです。
アルノ川の洪水で濡れた美術品を搬出する人達[川の氾濫で泥水を被った美術品を搬出する人達] 頂いた本の最後の方に次のような記述があります。
「危機的状況にある地域では、勇気を持って事に当たる必要がある。何故かならば洪水のための予算は悲観的であるからである。死者105人、行方不明9人。各地で死者が出た。ヴェネツィア、フィレンツェ、トレント、ブレッシャ、トレヴィーゾ、ボローニャ、ポルデノーネ、ヴィチェンツァ、ウーディネ、ベッルーノ、ボルツァーノ、モーデナ、ピーザ、グロッセートである。この地域の3分の1は大きな破壊に見舞われた。被害は甚大である。ヴェネツィア地域では7万ヘクタール以上が浸水し、300㎞の道が破壊された。避難者は何千人とあり、サン・ドナ・ディ・ピアーヴェ9000人、ポルトグルアーロ3000人、キオッジャ600人、カンパニャルーピア100人……」

ヴェネツィアからキオッジャに行く時はリード島に渡り、そこからバスで南下し、終点のアルベローニ(Alberoni)の港から船で Opera S.Maria della Carita`へ渡り、再びバスでペッレストリーナ(Pellestrina)島を南下します。キオッジャ港へは、南のヴァポレットの乗り場から再び船に乗り換えます(最南端は Ca'roman)。

バスでペッレストリーナを南に向かっていると、左手の海岸線に沿ってバスの高さの石壁が続きます。これが Murazzi と呼ばれる防波堤です。ヴェネツィア共和国はラグーナ(ヴェネツィア)を守るために、アドリア海との境に防波堤を作ることを決めました。1744年に工事が始まり、1783年完成しました。1751年第1期工事完了時の記念碑が残されているそうです―「水の世話係の人達は、自由の所在地である町の聖なる潟を永遠に守護すべく、海からこれを守るための硬い大理石の大きな防波堤を建造した」。1966年のアックァ・アルタではこのムラッツィが十何ヶ所に渡って破壊され、高潮がラグーナに注ぎ込みました。YouTube でペッレストリーナの当時の状況をどうぞ。Pellestrina(1)Pellestrina(2)

この小説の主人公、漁師パパ・フォルトゥナートの息子エルネストはヴェネツィア本島の南のこのペッレストリーナ生まれで、フランスの Aix-Les-Bains(エクス-レ-バン) などで旅行シーズンはレストランのウェイターが生業です。そんな彼が1966年のアックァ・アルタに遭遇し、ペッレストリーナの悲惨さに生まれ故郷を捨てて、ヴェネツィア本島に移住するのです。本を呉れたレストランのオーナーは自分の体験を下にこのドキュメンタリーな小説を書かれたようです。
フェリックス・ジアン画『サン・マルコ寺院前の高潮』[フェリックス・ジアン画『サン・マルコ大聖堂前のアックァ・アルタ』]  「……2mの水が全ての家の1階部分、全ての商店・倉庫に侵入した。全ての職人の仕事場を破壊した。軽油式ボイラーを壊した。家具、在庫の商品、図書館の本、役場の資料、ピアッツァーレ・ローマの駐車場の車まで駄目にした。7000人の島の住民は全員避難した。100の電力室が弾け飛び、火を噴き、ショートした。カンナレージョ区のトレ・クローチ通りのガラス工場が火災を起こした。

暖房、食糧がなかった。変圧器、電話装置、焼却器、ガス装置が駄目になり、水道管が使えなくなった。サン・マルコ広場では1m半の波の上を舟が走っていた。全ての岸という岸は水没し、船の桟橋は使用不能、シロッコは時速100㎞で吹き寄せ、サン・マルコ小広場の二つの街灯を吹き飛ばした。 ……」  被害の模様の描写が更に続きます。 
  ――ロベルト・ビアンキーン著『Acqua granda―Il romanzo dell'alluvione』(Filippi Editore Venezia)より。
避難するサン・マルコ小広場のホームレス[本から借用。総督宮殿下ブローリォのアーケードの椅子に避難するホームレスの人――アーケード等この場所をヴェ語でbrogio、broglio等言うそうですが、伊語のimbroglio(ペテン、混乱)の語が、貴族達がここを歩き回りながら不正に大議会の票の売買をしたことから、この語が生まれたようです]。
  1. 2013/01/26(土) 00:04:33|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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