イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの建物: モーロ=リーン(Moro-Lin)館とグラッシ(Grassi)館

ダ・レッゼ館から更に右へ進むと極端に窓の多いモーロ=リーン館が現れます。R.ルッソ著『ヴェネツィアの建物』(1998)は次のような事を書いています。
モーロ・リーン館「《12の窓の館》はトスカーナの画家セバスティアーノ・マッツォーニによって建てられた。彼は中央の窓を中心に、以前にあったゴシック様式の建物を繋いで一つの建物に造り替えたのだった。

最初の所有者はピエートロ・リーベリという波瀾に富んだ生活を送った画家だった。パードヴァに生まれ、何年かパドヴァニーノの工房で見習い修業をした後、コンスタンティノープル(Costantinopoli)に向けて出発した。しかしレスボス島のミティリーニ(Mitilene)でトルコ人に奴隷にさせられた。8ヶ月投獄された後、出獄出来てマルタ島に逃げ、スィチーリアに渡った。

続いてヨーロッパを歩き回った。リスボンからスペイン、フランスと移動した。その後ローマで3年過ごし、その間熱心にミケランジェロとラッファエッロを研究した。ヴェネツィアに帰るや大成功を収めて、画家組合を作った。それは将来アカデミーとなる協会である。

ピエートロ・リーベリ没後、館はベルガモ出身の食料品商リーン家が獲得したが、一家は1686年ヴェネツィア貴族となった。リーン家は最上階を増築し、中央のサロンにフレスコ画を描かせた。1748年にはガースパレ・モーロとイザベッラ・リーンの結婚が祝われ、建物はモーロ家が所有することとなった。

1800年代初頭、モーロ=リーン館にヴェネツィアの画家フランチェスコ・アイエツが住んだ。アトリエはこの館に設けた。その後も洗練された肖像画や古代ギリシア叙事詩に触発された絵画で有名になった画家ロドヴィーコ・リッパリーニが住んだ。彼はこの建物にイタリアや外国の芸術家や文学者達が集まれるアカデミーを作った。

今日、館はアパートに分けられている。」

更に右へ進むと大きなグラッシ館となります。同じく R.ルッソ著『ヴェネツィアの建物』(1998)の説明は次のようです。
グラッシ館「エレガントな古典様式の建物グラッシ館は、ジョルジョ・マッサーリの設計により1749年から建築が始まり、彼の死後に完成を見た。グラッシ家はボローニャ出身で、1720年代ヴェネツィア貴族を許された。

大運河に面した館はアンジェロ・グラッシが建てさせた物である。彼は階段の上に、自分の次のようなモットーをラテン語で刻ませた。《意見の一致があっても些細な不都合は生まれるし、見解の不一致は偉大なる事をも破壊してしまう》。

司祭のカルロ・ズィッリは『ヴェネツィアで生起した事件』という本の中で、自分の父の教えを忠実に守ったジョヴァンニ・グラッシは、妻のマルゲリータ・コンドゥルメールの度々の不倫を許していたと書いている。妻が自分のカヴァリエール・セルヴァンテのバッカラーリオ・ゼーンに捨てられた時、妻と仲直りして欲しいとバッカラーリオに頼み込んだのは、他ならぬ夫のジョヴァンニだった、というのである。

[ヴェネツィアでの cicisbeo(チチズベーオ)あるいは cavalier servante とは、貴婦人達に付き添って、彼女達の外出時など守護する役の騎士です。一家の後継者ではない二、三男等の青年が親族や同じ財力の友人達の集まりで貴婦人の付き添い役に選ばれました。任務は、朝の化粧から散歩等の外出、音楽会や詩の朗読会等にも付き添います。食事時には隣に座り、肉を切り分けたり、食後の遊びのテーブルなどにも付き従いました。将来の社会勉強の意味合いもあったようです。
貴夫人と騎士との間には恋愛関係はなかったと言いますが、夫が silenzioso beneplacito(暗黙の了解)で見守る中の関係はあり得たらしく、夫は proprietà familiari(家族としての絆の元になる帰属関係)を重視し、夫婦の結婚後の元の状態は維持しようとしたとか。譬え不倫があったとしても夫婦関係は堅持するということ]

ここまで夫が礼儀正しく慇懃であってみれば、この町の1800年代のガイドブックも言うように、この貴族夫人は建築家マッサーリが《ミステリアスな恋愛のために》この館に作った秘密の階段を利用することはきっとなくなったに違いない。

グラッシ家は1800年代前半に消滅し、館はトルニエッリ伯爵に相続された。次いでテノール歌手アントーニオ・ポッジが所有した後、旅館になった。それからフランチェスコ・デッリ・アントーニによって始められた、大運河の水を利用する浴槽会社となった。

その後所有者が転々とし、結局1983年自動車会社 Fiat(フィーアト)が獲得するところとなり、国際的にも重要な文化的催し物会場に造り替えるべく、建築家ガーエ・アウレンティとアントーニオ・フォースカリに徹底的な修復が任された。」
[現在は色々の企画展の会場となっていますが、1999年この美術館で、カルパッチョ画のコッレール美術館の『二人の貴婦人』とロサンジェルスのポール・ゲッティ美術館から里帰りした『潟での狩猟』が並べて展示され、本来一つの作品だったものが上下に切り分けられたものであることが確認されました。]
  1. 2013/03/09(土) 00:01:43|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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