イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

カテリーナ・コルナーロ(2)

「キプロスとアルメニアの王ジャック2世ルジニャン[Lusignano Giacomo Ⅱ――ヴェネツィア人は彼をザーコ(Zaco)王と呼んだそうです]に、カテリーナは子供時代を経て少しして嫁ぐことになった。1468年、彼女がやっと14歳になった時、ザーコ王の親友だった叔父のアンドレーアの事業がうまくゆき、父マルコが代理で許嫁を約束したのである。
持参金は黄金1000リッブラ[=300㎏]だった! 許嫁になる前に彼女が見たこともない金の量であった。彼には4年後会うことになる。1472年ヴェネツィアの船がキプロス(Cipro)のファマグスタ(Famagosta)に彼女を連れていった時である。

この結婚は一家の力の程を我々に見せ付ける。この出来事が何世紀にも渡って、キプロスでの共和国の経済的優位を確立した。この事によってセレニッシマの商人貴族は、王冠というものに辿り付いた訳である。この結婚はコルネール家に益したのみならず、共和国にとっても更なる政治的重要性を帯びることになった。
ティツィアーノ・ヴィチェッリオ『カテリーナ・コルネールの肖像』[ティツィアーノ・ヴィチェッリオ画『カテリーナ・コルネールの肖像』] そしてそのヴェネツィアが王の死に際しては、第一の役割を担うことが出来たのである。事実、島でのその後の行動のように、東地中海で戦略的に非常に拡充した、絶好の位置を獲得する。こうしてこの地域の支配を強化した。勝ったり負けたりが交互にあったにせよ、オスマン・トルコの圧力をますます感じるようにはなったのだが。

しかしルジニャンは共和国に強い関心を抱いていた。ジャック2世が非嫡男だったので、サヴォーイア公ルドヴィーコに嫁いだ姉妹のカルロッタ[彼を私生児(bastardo)呼ばわりして罵っていた]が色々な口実で要求を突き付けるのに、ヴェネツィアの力がブレーキを掛けるのに役立ったからである。

しかしジャックは結婚1年後、カテリーナが妊娠中ほんの33歳で亡くなってしまった。ファマグスタで亡くなるやカルロッタに追随する者達が騒動を引き起こした。その時、人々の予想通りの事が起きたのであり、ヴェネツィアは警戒を怠ってはおらず、直ぐ事件に介入した。

王子が誕生するやジャック3世の名前で直ぐに公表されていた。しかし突然の王の死のため、若い女王はニコシア[キプロスの首都]の大司教やナーポリ王アラゴンのフェルナンド1世(伊語FerdinandoⅠd'Aragona)に後押しされた島の有力者に翻弄されるがままだった。彼らの意図はザーコ王の庶出の娘をナーポリの王冠の相続人アラゴンのアロンソ(Alfonso d'Aragona)に嫁がせるということであった。この事はこの島に対して、途轍もなく大きな食指が動いているということであった。

1473年11月14日夜、恐ろしい事件が発生した。何人かの刺客が大司教の手引きで王宮に侵入し、カテリーナの部屋に乱入するや医者とお付の者を無残に刺殺した。王宮の外では彼女の叔父が命を奪われたが、マルコ・ベンボらヴェネツィア貴族が救助に駆け付けた。殺し屋達は全ての宝石や指輪類と王の印璽は手にしたが、可哀想な女王は王宮に打ち捨てて行かざるを得ず、生後数ヶ月の子供は連れ去った。

しかしこの悲劇はヴェネツィアにとっては有利に終始したのである。カテリーナは独りでは敵に刃向うことなどとても出来なかったから、彼女が生きていたということは言わば幸運と言ってよかった。

11月23日、ヴェネツィア艦隊司令長官ピエートロ・モチェニーゴは事の発生を知るや、即、ファマグスタに艦隊を発進させ、反逆者を捕え、全員縛り首に処した。

そして女王の置かれている剣呑な状況を考慮、2人の相談役と1人の施政官を任命した。こうしてヴェネツィアは、この悲劇的状況をうまく利用し、島の統治を間接的に行うようになったのである。

カテリーナの苦悩は終わらなかった。1474年8月26日、1年ちょっとして王となった息子が亡くなったため、カテリーナがキプロス女王となった。一人で統治を進めたが、ヴェネツィアの下心ある熱心な協力あってのことだった。ますますヴェネツィアから監視され、後見された。

15年間ヨーロッパの外交交渉の中で仕組まれる冷酷とも言える、策略的状況の中で、ヴェネツィアの保護国として王国を支えてきた。キプロスの富という好餌が示すものとはそれほどまでに食欲を唆るものであり、1488年10月には、再び島を支配したいと切望するスペイン人の企んだ陰謀が発覚した。

その時彼女をキプロスの女王として戴き、何年も支えてきたセレニッシマは、彼女が国のために身を挺して犠牲となり、公式に王国を共和国に併合することを決めた。こうしてカテリーナは1489年2月26日ヴェネツィア共和国のために退位し、続く3月14日にはあらゆる敬意と栄誉に送られてキプロスを出帆し、6月10日ヴェネツィアに到着した。

人々の歓呼の叫びの中、総督と政庁の人々から豪奢な式典で迎えられた。今日の、毎年のレガータ・ストーリカがこの式典を思い起こさせるのである。」 (3)に続く。
  ――Bruno Rosada『Donne veneziane』(Corbo Fiore Editori)より
  1. 2013/03/30(土) 00:04:01|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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