イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

カテリーナ・コルナーロ(3)

「……カテリーナは封土として受けたアーゾロでの洗練された隠遁生活を送ることになる。公式活動の中で、女王の称号と身分を守りながら、1489年10月11日実際の領国となった全領地(元々は総督が保有していた)をもってアーゾロの君主として任じられた。そして総督の庇護と敬意の下、共和国で決められた百名の兵を従えることになった。
アーゾロ案内ジェンティーレ・ベッリーニ『カテリーナ・コルネールの肖像』[ジェンティーレ・ベッリーニ画『カテリーナ・コルネールの肖像』] そしてカテリーナはアーゾロで、有力なる君主として20年を生き、宮廷を営み、貴族や知識人を招いた。ピエートロ・ベンボは、1505年アルド・マヌーツィオによって出版された愛の対話の3巻本を『アゾラーニ(アーゾロの人々)』(カテリーナのヴィッラでの3日間と考えられる)と題して発刊した。          

彼女は演劇に関して特別の関心があり、1507年9月23日彼女の宮廷で演じられたプラウトゥス(前254頃~前184頃の古代ローマの喜劇作家)の喜劇『メナエクスム兄弟(Menaechmi)』の上演が忘れられぬものとしてある。

しかし明らかに制限の多い統治権だった。いかなる種類であれ、住民に税を掛けることは出来なかったし、ヴェネツィア政府の司法当局により、隠遁所を欲しがる者に譲ることは出来なかった。

1509年彼女が亡くなる少し前、カンブレー同盟戦争への悲しい推移の結果、彼女は故郷へ突き返されることになった。それはヴェネツィア史の中で、一番悲劇的だった時代であり、ヨーロッパの半分が彼女に対して連合を組んでおり、敵軍はメーストレまで来ていた。

独軍に放逐された後、短期間アーゾロに戻れたがヴェネツィアに直ぐ帰郷し、1510年6月10日サン・カッスィアーノの館で亡くなった。当時のその館は現在見られるようなものではなく、1300年代のゴシック様式の物だったと思われる。しかしその隣接した地域を含めて拡張された。
カテリーナ・コルネールの生まれた邸宅「コルネール・デッラ・レジーナ館」[左の巨館、コルネール・デッラ・レジーナ館。右、ペーザロ館] 今日の建物は1724年の建造で、建築家ドメーニコ・ロッシの作品である。教皇ピウス7世に遺産として残された後、彼もまた Padri Cavanis(カヴァニスの教父――1772.01.16日アントーニオとマルコ兄弟がヴェネツィアに作った教団)達にそれを譲ったのだが、結局ヴェネツィア市が獲得するところとなった。続いてヴェネツィア・ビエンナーレの現代美術の歴史資料館となり2005年には修復されることとなった。

彼女の葬儀の時の文言がある。それはヴェネツィア語Adi` 11 lujo……で始まる、1500年代の卓越した歴史家マリーン・サヌードの日記である[ヴェ語概略―6月11日風雨の激しい大嵐の中、2人の僧と十字架、2枝の燭台に伴われて彼女の亡骸を納めた棺が静々進んだ]。これが女王の葬儀だったと考えてはいけない。共和国は自分達がやらなくてはならない事は知っていた。……。

その後《[ヴェ語で]リアルトのペスカリーアから対岸のサンタ・ソフィーアへ渡るため大運河にブルキエッロという平底の渡し船の上に浮橋が作られ》、キプロス女王、共和国の娘であるカテリーナ・コルナーロは、マーウロ・コドゥッチにより、少し前にサンティ・アポーストリ教会に作られた一家の礼拝堂に手厚く葬られた。[石のリアルト橋の完成は、後の1591年のこと。]

しかし今日では、カテリーナ・コルナーロはサン・サルヴァトーレ教会(S.Salvador)に眠っている。この教会に1525年以来コルネール家は葬儀用モニュメントを二つ建てるべく翼廊正面を獲得していた。キプロス女王カテリーナのためと一家で最初の枢機卿となったマルコのためである。

ジャンマリーア・ファルコネットによって練られた設計は半世紀の間、紙上のものでしかなかったが、ベルナルディーノ・コンティーノが彫刻と円柱で飾った、相似の双子の建造物として完成を見た。カテリーナ・コルネールのモニュメントは右翼廊正面にある。

一家の紋章を支え持つプット達の間の中央の浅浮彫りは有名な事件について語っている。キプロス女王がヴェネツィア総督に王冠を授けるという図である。モニュメントの足下の大きな石棺には次のような意味のラテン語の文言がある――キプロス、イェルサレム、そしてアルメニアの女王カテリーナ・コルネールの遺体。この墓の作製に当たって、1700年代半ば修道院長デ・グランディが準備を整えた。 ……。」
 ――Bruno Rosada『Donne veneziane―amori e valori』(Corbo e Fiore Editori)より
  1. 2013/04/06(土) 00:01:45|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは十数年前。ヴェネツィアには即一目ぼれ。
その結果、伊語勉強のためにヴェネツィアの語学学校に何年間か数ヶ月通いました。
その後もヴェネツィアを訪れるたび、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら書くのが楽しいのです。

*図版はクリックすると拡大されます。

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