イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

Gli Ospedali(養育院)(2)

今迄何回かヴェネツィアの Ospedale(オスペダーレ――養育院、慈善院、救護院等、現在は病院の意)について触れましたが、ここで養育院とは何か、を Aldo Bova『Venezia――I luoghi della musica』(Scuola Musica Antica Venezia、1975)に則って書いてみます。
ヴェネツィアの音楽養育院というものが最初に誕生したのは939年で、共和国滅亡時(1797)までに915院が設置されたそうです。収容者は、巡礼者、病人、貧困者、孤児、老人、船員、色々の年齢・境遇の女(少女、未婚女性、老女、貴族婦人、子供のない寡婦、偏屈な宗教固辞女、元娼婦)。収容者の生活は偏に寄進に頼っていました(音楽家アードリアン・ヴィラールトは養育院に1600ドゥカートを、と遺言状を残しました)。

最大かつ最重要な養育院は、ピエタ、インクラービリ、オスペダレット、メンディカンティの4養育院。これらが次第に音楽を教えるコンセルヴァトワールの体裁を帯びることになったのは、寄付で成り立つ養育院経営に必要な資金を集めるのに、音楽が功を奏することが次第に分かってきたからだそうです。

合唱団員としての少女達に、音楽理論、歌唱、各種の楽器を教えます。ヴェネツィアには、教皇庁や他のイタリアが真似の出来ないことがありました。例えばヴェネツィア以外では、教会では女性の歌唱は禁じられていました。

一方少年達は色々の職人達の手職を仕込まれ、若い内に養育院を出されました。

音楽を選択すると、先ず単旋聖歌から始まって多声音楽へ、更に各種楽器演奏へと進みます。それは、少女達の教育完成のため、また価値ある活動に就かせるために、若い内から音楽活動で成功の喜びを体感させるためでした。

教会は信者で一杯になり、席は献納金が集まる場所です。殊更そういう席を増やそうともしたようです。更に席でのオラトリオの小冊子の売り上げは充分に達成出来(教会外でも販売)、音楽家への支払いや楽器の購入費用を可能にします(スピネット、クラヴィチェンバロ、室内用オルガン、弦楽器と吹奏楽器)。生徒に才能があり、楽器が良くなれば彼女の技量は更に高まるでしょう。

養育院の経営責任者は、例えばメンディカンティの場合貴族・上流市民各12人で、音楽教育完成のために非常に意を注ぎます。中でも意を用いたのは曲そのものに現代的センスが溢れていること、音響効果が宙空の合唱団席の配置等でより良くなること、秀でた生徒達が練習し過ぎで登場出来ないことがないこと、教師が教育的にも芸術的にも優れていること、等であったと言います。

少女達はソルフェージュ、歌唱法、そして週に4日は楽器演奏のレッスンを受けますが、言わば外出禁止の監禁状態での生活であり、極く稀にしか外出は許されませんでした。旅としても年1回ブルキエッロ号に乗船し、控え目で目立たないように出来るだけ閉じ籠り、日課の祈祷やお祈りに励みます。それは健康祈願であり、将来結婚出来ますように、であり、修道女になれますように、であり、何か行事の行列や重要な演奏に参加出来ますように、でありました。そうした少女の一人ラーウラ・ロンバルディーニ(オスペダレット養育院の)は、非常に優秀であったので、パードヴァのジュゼッペ・タルティーニの元にヴァイオリンの勉強のために送られます。

こうした厳しい外出禁止令からは、不服従とか鬱病の蔓延という逸話が生まれます。1739年オスペダレットの少女達は、《何度もやる気をなくし、殆どの少女の表情は冴えず、不機嫌な様子が彼女達の傷んだ心の状態の証明として表情にはっきりと表れていた》そうです。

彼女達には一生劇場で歌うことは禁じられていました(1781年1月30日デレリッティ(オスペダレット)養育院の少女達はサン・ベネデット劇場の催し物に例外として出演したことがありました)。

成功して有名になった者は孤児ではなく、音楽の勉強のために例えばザルツブルク等の外国から来た《教育ある娘達》でした。また最優秀の少女は《貴族階級》の娘にプライヴェート・レッスンを施すこともありました。

ある少女は、結婚後劇場でのキャリアーを積むことが出来ました(1700年代末、メンディカンティ養育院の合唱団にいた娘レーリアは、オスペダレット養育院の教師ピエートロ・アレッサンドロ・グリエルミとの結婚後、ロンドンとウィーンの劇場で大成功を得ます)。

1600、1700年代のヴェネツィアの養育院では、女性が各種の楽器を演奏し、人に教え、オーケストラを指揮出来る、ヨーロッパで唯一の土地でした。パリ、ロンドン、ベルリンの最初のコンセルヴァトワール(音楽学校)は、このヴェネツィアの養育院を範に出来たものでした。

養育院のレパートリーは、カーニヴァル中、音楽劇の演奏があったという記述があったとしても、偏にオラトリオ、カンタータ、コンチェルトが原則だったそうです。カーニヴァル中は1606年以来、マスク(伊語maschera――マスケラ)等を被って扮装した人はヴェネツィアの全教会には入ることは出来ませんでした。

1700年代後半、新しい後援者を見つけ出し、義捐金を集めたいという意向の下、著名な招待者のためにプライヴェートなコンサートを開く傾向が生まれます。この目的のために、それ用のコンサート・ホールが設置され装飾され、客達はお喋りをしたり、チョコレートを飲んだりしながら、アカデミックな演奏を聞くことが出来ました。

養育院は同じ院内の人からの銀行預金も預かったそうです(フランチェスコ・ガスパリーニはピエタ養育院に利率3.5%で200ドゥカートを貸し付けたといいます)。1700年代末には利子が膨らみ手酷い損害を被ることにもなりました(アードルフ・ハッセはインクラービリ養育院に自分の貯えを全て預けていて、破産したそうです)。 ――[2007.12.06日に0spedaleでも触れました。]――
  1. 2013/06/15(土) 00:01:03|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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