イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ピエタ養育院

今までヴィヴァルディの事を書いた時、若干なりとも触れてきましたが、彼が音楽教師となり、そこの女生徒達をヨーロッパ随一の合奏団に育て上げたと言われているピエタ養育院について、Aldo Bova『Venezia―I luoghi della musica』を参考にまとめてみます。
ピエタ教会とその養育院ピエタ養育院ピエタ養育院のヴィヴァルディについての碑左、中央のセポルクロ橋左脇の養育院とその左のピエタ教会。中央、ピエタ養育院(イタリアのサイトから拝借)。右、ピエタ通りの養育院の壁に掲げられた碑「この場所にはピエタ養育院の音楽堂が建っていた。当時その才能は十全に理解されていなかったが、ここでアントーニオ・ヴィヴァルディが1703~40年の間《コンサート・マスター》として作曲し、ヴェネツィアそして全世界に比類なき豊饒の音楽を提供した。中でも『四季』は音楽の精華である。彼の時代が今や訪れた。」

「1348年ピエルッツォ・ダッシージにより設立、1700年代には1000もの人が収容された。最初は他の養育院同様、寄進が僅かだったので、元老院は寄附集めに音楽家達を町に送り出した(1525)。

娘達のヴァイオリン教師としてのアントーニオ・ヴィヴァルディ師は、1703~38年まで色々の資格で娘達を教えたが、彼の他には1701~13年フランチェスコ・ガスパリーニはチェンバロ教師、音楽理論教師としてドメーニコ・スカルラッティ、ベネデット・マルチェッロ、ベネデット・プラッティ、ヨーハン・ヨアヒム・クヴァンツ等がいた。生徒達は音楽院傍の教師の屋敷に勉強に行った。

1720年のヴァイオリン教師はアントーニオ・ヴィヴァルディ、1742~43年はニコーラ・ポルポラが音楽教師、1744~50年にはロレンツォ・カルミナーティがコンチェルトの教師をした。娘達の演奏服の色は赤であった。オラトリオの演奏は1683~1820年続いた。1673年にはヴァイオリン教師としてボナヴェントゥーラ・スパーダが雇われた。ヴィヴァルディの雇用もこの期間である。

1707年合唱隊の編成は13人だった(ソプラノ5、コントラルト4、テノール3、バス1。何人かの娘は非常に低い音域で歌唱出来、あるいはオクターヴ上の声域で歌唱可能だった)。オーケストラは14人編成であった(ヴァイオリン4、ヴィオラ3、チェロ2、ティオルボ[大型リュート]1、ヴィオローネ[コントラバスの祖]1、鍵盤楽器3)。

1716年ヴィヴァルディは対トルコ戦争の寓意詩であるオラトリオ『勝利のユディタ』を作曲、指揮した。
1735年養育院は毎日10台の鍵盤楽器の調律師に支払いをした。
1738年バイエルンのフェルディナント公に敬意を表し、ヴィヴァルディは5重唱『漁民の唄(Mopso)』を作曲、指揮した。
1739年シャルル・ド・ブロスは娘達が演奏中、耳に花束を挿し、その上指揮者が女性であるのを見、大変驚いた。
1741年ザルツブルクから、最もイタリア的な感性で歌うことを教育出来る女性を欲しいという要望が届いた。
1753年謝肉祭に観客が仮面を被らないという条件で、娘達が音楽劇を演奏することの認可が下りた。
1777年オスペダレット養育院の娘がピエタ養育院のオルガン教師の下で学ぶために送られて来た。

ヴェネツィアの最小の養育院の、この古い教会はスキアヴォーニ海岸通りにあり、奥行20m、幅10m、高さ10mである(大きさと音響効果について考える時、この寸法のサン・バッソ教会[サン・マルコ寺院左のレオーニ小広場前にある]に行ってみるがよい)。壁面に板が張られ、周囲の壁際には椅子が設けられ、聖歌隊席は大祭壇の上部、金鍍金した鉄格子で囲われていた。

1723年両脇に張り出した小聖歌隊席が作られ、娘達はリズムを取る指揮者をよく見ることが出来るようになった。左の小聖歌隊席には第2オルガンが設置された。時々特別の音響効果が得られるように教会の四隅に合奏団が配置された。非常に稀なことであったが、娘達は聴衆の所に下りてきて歌った(1688年3月トスカーナ公に敬意を表してのことだった)。

ヴェネツィアで最大の養育院になった新教会は、1745年に建てられた(演奏する娘達のためにより適した形態が採用された)。そして1760年9月14日献堂された。合唱の娘達は二つのオルガンの聖歌隊席で歌い、他の娘達は3階のロッジャで、聴衆は教会の席で、高位の人達は2階のルネッタの席でそれを聞いた(入口上の聖歌隊席は中央ヨーロッパの修道院に作られた王室用ボックス席を彷彿とさせる)。

教会内部の規模と形状は、音楽を聞くに適した音響効果を確保するよう設計された。ファサードは1900年代初頭に完成した。

ナッキーニ・オルガン(1759)は1面の鍵盤と19のオルガン・ストップを備えている(オルガン製作者は右の聖歌隊席にもう1台のオルガンを作っていたが、失われた)。

天井にはジャンバッティスタ・ティエーポロの『聖母マリアの戴冠』が描かれている。その中にはティオルボ(大型のリュート――共鳴版の上に三つの薔薇が浮き上がるように描かれている)、ヴィオローネ(コントラバスの祖)、ヴァイオリン、喇叭、ティンパニ、ホルン、オーボエ、ヴィオラ、オルガン、歌手達が描き込まれている。

現在県立の子供のための協会には、古文書や娘達のために養育院が1700年代に購入した楽器の収集がある――中でもヴェネツィア人マッテーオ・ゴッフリレールのヴァイオリンとチェロ、アンドレーア・コイーン(1770)の作ったホルン等。」
ティツィアーノ・スカルパ『スターバト・マーテル』2011.12.17日に書きました文学に表れたヴェネツィア―ティツィアーノ・スカルパを参考までにどうぞ。ティツィアーノ・スカルパがピエタ養育院を小説にしています。
  1. 2013/07/20(土) 00:11:29|
  2. 音楽
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手知ったヴェネツィアを先ずは訪れて、各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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