イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

インクラービリ養育院

Aldo・ボーヴァ著『Venezia―I luoghi della musica(音楽する土地、ヴェネツィア)』(Scuola di Musica Antica Venezia、Banca Popolare di Novara、1995)は、インクラービリ養育院について概ね以下のような事を述べています。

「1522年感染症患者や梅毒患者を収容するために設立された。

最初の音楽的痕跡は1640年に遡る。音楽教師にはカルロ・パッラヴィチーノ(1674~88)、カルロ・フランチェスコ・ポッラローロ(1696~1718)、ニコーラ・ポルポラ(1726~33)、ヨーハン・アードルフ・ハッセ(1733~39、有名な歌手ファウスティーナ・ボルドーニとの結婚が縁で招聘)、ニッコロ・ヨンメッリ(1743~47)、バルダッサーレ・ガルッピ(1768~76、ある財務官が沢山の美しい乙女達に彼が囲まれているのを見て「可愛い娘さん達の中で好いですな」と言うと、「閣下、鼻の欠けた男に仰山なハンカチは似合いません」と)。

インクラービリ養育院の少女達は青い衣装を纏った。彼女達のあるファンは「娘達は歌わずとも私を魅了する」と書いた。
オラトリオの演奏は1677~85年続いた。
1683年2月25日カーニヴァル最後の木曜日(giovedi' grasso)、キリストの受難祭を音楽で盛大に祝った。
1688年全音楽家参列の下、ジョヴァンニ・レグレンツィ指揮により、カルロ・パッラヴィチーノの追悼のためにレクイエムの大ミサ曲が奏された。

1709年ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルとドメーニコ・スカルラッティによるオルガンとチェンバロによる有名な競演があった(あるいは2年前のサン・ジョヴァンニ・グリゾーストモ劇場でのことかも知れない。確かな事は、ローマでも行われた。ヴェネツィアでのそれは全音楽史家には受け入れられていない)。

スカルラッティに関して、仮面を被った音楽家がチェンバロを弾くのを聞き、「かの有名なザクセン人[ヘンデルの事]か、さもなければ悪魔の申し子だ」と言ったそうである。確実なのはスカルラッティはチェンバロ奏者のトーマス・ロゼインクラーヴェとある館で競演したのであり、トーマスはスカルラッティの virtuosita' に敗れ、その時以来彼の熱狂的応援者となった、ということである。

1728年ソプラノ2、コントラルト2とオーケストラでハッセのミゼレーレが演奏された。この曲は多分1700年代を通じて、ヴェネツィアで最もよく演奏された曲である。

1782年5月18日教皇ピウス6世のヴェネツィア訪問に際し、詩人ガースパレ・ゴッズィ台本、ガルッピ音楽による大聖史劇『トビトの帰還(Il ritorno di Tobia)』が、1400人の聴衆の前、4養育院の娘達の競演で演奏された(年代記は教皇が重大な約束事のため出席出来なかったと書いている)。ガルッピの指揮では、しばしば合唱2、オルガン2を伴う二つのオーケストラで演奏された。

1794年養育院は陸軍当局の所有となった。

教会が修道院の中庭も殆ど全部を占めてしまうことになった。それはヤーコポ・サンソヴィーノの設計で1527~91年に、ヴェネツィアで初めてよりよい音響効果を求めて建てられたものである。彼は長方形の設計図に各隅の角を丸くするといった設計をした。天井としては反響の行き過ぎを和らげるように木材の板を使った(サンソヴィーノはサン・マルコ寺院の音響的欠陥を避けたいと思ったのである。彼の意見では殆どの音楽が交雑した音となり、理解し難く混淆したものとなっているというのである)。

両脇の壁面に沿って寮に直接繋がる二つの大きな傍聴席が作られた。少女達は右の傍聴席で歌い、少年達は左の傍聴席でミサを聞いた。養育院の前部には音楽ホールが作られた。ガルッピのオラトリオ『Tres Pueri Haebrei』の大成功(1774年には約100回演奏された)後、天井に作曲家の作曲中の様子をフレスコ画で描く案が持ち上がった。この案は実現しなかったが、オスペダレット養育院の管理者達が自分達の音楽ホールを飾りたいという気持ちに火を点けた。

教会は1832年に崩れ落ちた。その後養育院は法務省に属した。」
元インクラービリ養育院ヨシフ・ブロツキーの碑旧インクラービリ養育院前の碑[現在養育院は、元ピエタ教会にアッカデーミア美術館と共にあったアッカデーミア美術学校が近年こちらに移転してここが本拠地となったようです。養育院前の通り名は Fondamenta Zattere agli Incurabili で、ノーベル賞受賞者ヨシフ・ブロツキーの『Watermark』(集英社版訳『ヴェネツィア』)の伊語訳の書名は『Fondamenta degli Incurabili』であり、養育院前に記念の碑が置かれました(彼は死ぬまで毎年ヴェネツィア訪問を欠かさなかったそうです)。彼はニューヨークで亡くなりましたが、墓はヴェネツィアのサン・ミケーレ島にあります。

ブロツキーが Youtube で自詩を露語で、ヴェネツィアの風景の中で朗誦するその力強さをお聞き下さい。Josif Brodskij。彼の『ヴェネツィア』伊語版の朗読は次です。Fondamenta degli Incurabili。尚、2009.11.07~14日にヨシフ・ブロツキー(1~2)を書きました。]
  1. 2013/08/03(土) 00:05:28|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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