イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

オスペダレット養育院

少し以前にピエタ養育院とインクラービリ養育院について書きました。残る養育院の一つ、オスペダレット養育院について Aldo・ボーヴァ著『Venezia―I luoghi della musica(音楽する土地、ヴェネツィア)』(Scuola di Musica Antica Venezia、Banca Popolare di Novara、1995)は次のように述べています。この養育院は Castello 区 Barbaria de le Tole 6691 にあります。
ヴェネツィアの音楽「ここの活動が始まったのは、1527~28年にかけての冬のことで、疫病が猖獗を極め、障害者や熱病者を収容するための病室が作られた。

養育院に金銭や財産を遺贈した人は、その交換に自分への弔い(追悼)のためにミサを上げてくれることを願った。1700年代になると年に1万2千のミサがここで行われた。リアルト橋のサン・ピエートロの本屋ピエーロ・コレッティは、オスペダレットのために1240リラをその遺言書(1630年8月1日付)に遺した。そこには合唱隊の少女達への感謝の言葉がある。《彼女達の歌を聞くために……その故もあって、私にとって芳しくないと思われる連れ達との同席は避けた。》
……
養育院での音楽についてのニュースの初めは、定旋律に関するもので、1566年に遡る。音楽活動の最初は聖ジローラモ・ズィアーニが、貧しい人達にカトリックの公教要理を教え、喜捨を集めるために小さな宗教行列をする中で歌われた聖歌であった。

音楽教師には次の人々がある。
バルダッサーレ・ドナート(1603年まで)、ジョヴァンニ・バッサーノ(1612年)、ジョヴァンニ・ロヴェッタ(1635~47年)、ジョヴァンニ・レグレンツィ(1670~76年、夥しい曲を作曲、少女達に非常に厳しく練習させたので、彼女達は一斉にちょっとしたストライキを敢行し、他の家事等は免除してくれるよう要求した)、ベネデット・ヴィナッチェージ(1698~1715年)、アントーニオ・ポッラローロ(1716~43年)、カルロ・テッサリーニ(1727年)、アントーニオ・マルティネッリ(1733~65年。弦楽器教師。1746年、時に独奏協奏曲を引き続き作曲するよう要請された)。

ニコーラ・ポルポラ(1744~47年。急を要する遺跡の修復と称してナーポリへ帰ってしまった)、トンマーゾ・トラエッタ(1766~73年)、アントーニオ・サッキーニ(1768~73年)、パスクァーレ・アンフォッシ(1773~82年。1783年ヴォルフガング・アマデーウス・モーツァルトがアンフォッシのオペラ『物見高い野次馬(Il curioso indiscreto)』のために四つのアリアを書いてくれた)、ドメーニコ・チマローザ(1782~1801年?)。

オスペダレットの125人の少女達の内、40人が歌手、21人がオーケストラで演奏し、19人が合唱隊に属していた。白い衣装が制服であった。

オラトリオの演奏は1716~91年続いた。
……
 1676年、レグレンツィは《自分に対して立てられた芳しくない評判》に悩んで辞任した。そして辞めるに当たって、6年間に少女達のために書いた《四つのミサ曲、70曲以上の聖歌、80曲以上のモテット、5曲の終禱、頌歌、弦楽用ソナタ、鍵盤用ソナタ》を人々に明示した。
 1713年、ヴィナッチェージは辞任を懇願した。というのは《私にとって大切な課題、慎重に言葉を選べば、深い信仰に関わること》が、450作品を作曲した後で見付かった、のだと。
 1738年、教会の音響効果をよりよくするためにオルガンの背後に木板で反響板を作った。
 1746年、弦楽器のマエーストロ、マルティネッリは給料のアップを要求した。というのは《現代風》の20のコンチェルトとシンフォニーアを作曲するためであった。更にポルポラ作曲の難しい曲の演奏のためで、その曲は《和声的手法で書かれており、殊更、畏敬の思いで演奏することが必要で、彼が書いたことに忠実に接することを避けてはいけない》のだと。
 1748年、腰を下ろせる座席の数が330になり、音響効果上よしとされる指示に従い、合唱席の床面が引き下げられた。
 1776年1月15日、少女達の古い食堂をリハーサルの出来る場所へと模様替えして音楽ホールを作ることが決まった。《何か協奏曲でも聞きたいといった注目すべき意見でも聞かれるに相応しい、また、既に設置されている他の養育院にも適用可能なように》。

音楽ホールは今日、ヴェネツィアの養育院での音楽生活の最も素晴らしい、示唆に富む例証である。入口の門の前にヤーコポ・グァラーナの『少女達のコンチェルト』というフレスコ画がある。アポロンが合唱隊の娘達に囲まれている。彼女達はアンフォッシのオペラ『アンティゴネー(オイディプースの娘)』のアリア『戦かんばかりの運命に抗して共に闘おう』を歌っている。それは1773年サン・ベネデット劇場で上演されたものだった(読みごたえのある歌詞であり、美しい娘によって指揮された)。円柱の背後に丸めた楽譜を持ってテンポを取るアンフォッシの姿が見える。

見せ掛けの格子窓の、右の奥の高みに2人の少女がホールを見ようと好奇心に駆られてカーテンを脇にどかしている姿が垣間見える。入口の門の上には、格子窓が設置されている(多分当時はカーテンで遮られていた)。その後ろには歌手や楽器奏者達がいる小さな部屋があった。

鍵盤1列、18ストップの素晴らしいナッキーニ・オルガン(1751)は、大祭壇上の聖歌隊席の中の、1600年代の装飾で満ちた収納庫に収められている。鍵盤の脇には、多分同じオルガン奏者の手書きの指示板があり、ソナタやミサ曲等の種々の演奏時に使うストップを明示している。

教会内部には、ヴィチェンツァのマエストロ、カルロ・グロッシが1688年に、1779年にはトンマーゾ・トラエッタが葬られている。トラエッタの遺骨は1980年にビトントに改葬された。

アンドレーア・チェレスティの『聖母子と聖人』の中には、四重奏の模様が見られる(リュート、ハープ、ヴァイオリン、ヴィオラ・ダ・ガンバ)。音楽文庫と古文書(オスペダレットとメンディカンティの)は、現在はジュデッカ島のI.R.E.に収蔵されている。

オスペダレット養育院は、救護院・孤児院としての機能と貧窮者の収容を現在まで引き続き継続してきた。」
  1. 2013/09/14(土) 00:02:20|
  2. 音楽
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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