イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

メンディカンティ養育院

今回も アルド・ボーヴァ著『Venezia―I luoghi della musica(音楽する土地、ヴェネツィア)』(Scuola di Musica Antica Venezia、Banca Popolare di Novara、1995)の助けを借りて、最後の一つ、4つ目のメンディカンティ養育院について書いてみます。
ヴェネツィアの音楽「カステッロ区メンディカンティ運河通りにある施設。1246年ハンセン病患者用施設として、サン・ラッザロ島に設立された。1600年物乞いする老人や孤児をも収容するために、フォンダメンタ・ヌオーヴェ(Fondamente Nove)に移転した。

最初の音楽活動は1604年に遡る。音楽の勉強は三つの段階に分けられた。少女達は16歳まではインチピエンテ(incipienti―初級者)、21歳まではプロフィティエンテ(profitienti―修道女になるための誓いを立てた者)、31歳まではエッセルチタンテ(essercitanti―修道鍛錬に勤しむ者)と呼ばれた。

教師には、ジョヴァンニ・ロヴェッタ(1639~42年)、ナターレ・モンフェッラート(1642~76年)、ジョヴァンニ・レグレンツィ(1676~83年、修道女となった元の教え子に《7石のダイヤモンドの……指輪を》と遺言状に遺した)、ロッセット[rossetto 赤毛]と称されたジョヴァン・バッティスタ・ヴィヴァルディ(1689~93年――アントーニオ・ヴィヴァルディ[彼も赤毛と呼ばれた]の父)、アントーニオ・ビッフィ(1699~1730年)、バルダッサーレ・ガルッピ(1740~51年)、フェルディナンド・ベルトーニ(1752~77年)。

オラトリオの演奏は1667~1797年続いた。
 1630年、《いつも使っているトロンボーンが壊れた》ので新品を買うことが決まった。
 1669年、少女達は2台の室内オルガン、1台のスピネッタ、3台のクラヴィチェンバロ、3挺のヴァイオリン、1挺のヴィオラ、1挺のチェロ、2挺のヴィオローネ、2挺のティオルボ、2管のトロンボーン、1管のファゴットを自由に使用していいことになった。
[スピネッタ(spinetta)とはクラヴィチェンバロに似た楽器で、1503年ヴェネツィアでジョヴァンニ・スピネッティ(羅典式Johannes Spinetus)によって考案された。]

 1741年、スピネッタの製造者のジローラモ・メネゴーニは、9台の鍵盤楽器を調律し、整えておくように委託された。
 1744年、ジャン=ジャック・ルソーは歌唱の素晴らしさに魅せられた(「私はこんなにも官能的、且つ感動的なものとは知りもしなかった」)。そして彼女達をどうしても知りたく、ある政庁の役人を説得して、彼女達を晩餐に招待することが出来た。最初出会って、彼女達が美人であるということから程遠いことに愕然とした(「殆ど全員、明確に欠点がないという訳ではなかった」)が、彼女達がそれぞれの魅力を持っていることは認めざるを得なかった。
[2009.03.28日の文学に表れたヴェネツィア――ルソーも参考までにどうぞ。]

 1750年、ガルッピは tromba da caccia の名手、12歳と14歳のマリーア・エリザベットとマリーア・ジローラマ・ロッソーニ姉妹をオーケストラに入れた。
 1767年、マルカントーニオ・モチェニーゴは養育院の理事の一人であったが、ヴュルテンベルク公に《夜の2時に始まり、軽い茶話会を挟んで、5時に終わる、少女達の妙技による演奏と歌唱の演奏会》を提供した。

 1775年3月28日、皇帝ヨーゼフ2世(Giuseppe Ⅱ)はフェルディナンド・オルトーニのオラトリオに参加した。そして音楽の素晴らしさに打たれ、総譜を持って来させた。養育院の長い歴史の中で、この唯一の貴人は少女達と歌い始めた。
 1777年7月1日より《致命的財政破綻に見舞われ、全音楽教師への給与の支払いが中止となった。》1780年ウィリアム・ベックフォードはメンディカンティの少女達の事について書いている。《大きなコントラバスの弦に沿って動くデリケートな白い指、フレンチホルンを吹くピンクに染まった両頬を見たいといった、極当たり前のことがなくなってしまった。ある少女達は年老いて、ギリシア神話のアマゾネスの風貌である。ヴァイオリンという恋人を捨ててしまい、ティンパニを激しく打つのみである。一方貧しい少女はビッコを引き、愛にも見限られて、今やファゴットの前で恰好をつけているだけである。》

 1783年、合唱団の娘ラ・フェッラレーゼと称されたアドリアーナ・ガブリエッリは養育院を逃げ出し、ルイージ・デル・ベーネと結婚した。ウィーンではロレンツォ・ダ・ポンテの恋人になり、『フィガロの結婚』の初演の出演者となった(モーツァルトは彼女のために二つのアリア『Aldisio di chi t'adora』[ロンド『あなたを愛している人の望み通り』K.577の事]と『Un moto di gioia』[アリア『私の胸は喜びに踊るの』K.579の事]を追加した)。そして『コジ・ファン・トゥッテ』の初演ではフィオルディリージ役である。
[2010.05.22日のロレンツォ・ダ・ポンテ(4)で、ラ・フェッラレーゼについて触れています。]

 1786年10月3日、ヨーハン・ヴォルフガング・ゲーテはオラトリオに参加し、音楽と歌唱を賞賛した。しかし聖歌隊席の木の格子を、丸めた紙で叩いて拍子を取る指揮者に非常に悩まされた。

カッリード・オルガン(1772)は、バッザーニ(1862)によって鍵盤1列、19ストップに作り直された。両脇の壁面の中央には、四つの大きな木の格子窓が開かれており、その背後に出席者達が男女に分けられて、儀式に参列した。

最初の音楽は、右の格子窓の背後の部屋で演奏された。音が詰まったように聞こえるので、1672年、聖歌隊席を設置することが決められた。最初の二つの祭壇画は、インクラービリ養育院から到来したもの。聖具室には、アントーニオ・ビッフィが葬られており、彼は1702~32年サン・マルコの礼拝堂のマエストロでもあった(墓碑が見つかっていない)。

実際には、教会はカプチン派の神父によって祭式が司宰され、古い養育院は市の救護院全体の一部となっている。」
  1. 2013/09/21(土) 00:03:15|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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