イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ドキュメントに表れたヴェネツィア――アレッサンドロ・マルツォ・マーニョ(2) 書籍

2011.06.04~06.25日の印刷・出版(1~4)で、15~16世紀に活躍したアルド・マヌーツィオの事を通して、ヴェネツィアの印刷・出版事情について簡単に書きました。
『そのとき、本が生まれた』この本『そのとき、本が生まれた(L'ALBA DEI LIBRI―Quando Venezia ha fatto leggere il mondo)』(アレッサンドロ・マルツォ・マーニョ著、清水由貴子訳、柏書房、2013年4月8日――ダルツォ・マーニョ(1)も参照されたし)は、この著名な出版人の事績を中心にヴェネツィアに関わる当時のその出版・印刷事情を、あらゆる分野の書籍を多角的に詳述することで、15~16世紀のヴェネツィアとはどんな町であったかを浮かび上がらせようとしています。

第1章はヴェネツィアの書籍事情全般、第2章はアルド・マヌーツィオの事、第3~11章はユダヤ人のタルムード、イスラムのコーラン、アルメニア語とギリシア語の本、東欧言語の本、地図、楽譜、医学・美容・美食等の本、作家ピエートロ・アレティーノの誕生、最後にヴェネツィアの印刷・出版は何故衰微したのか、が語られます。
ピエートロ・アレティーノの肖像[ティツィアーノ画『ピエートロ・アレティーノの肖像』] 《消えたコーラン》の章は、ヴェネツィアで刷られた世界初のコーラン(パガニーニ社)の近年の発見に至る過程が、推理小説を読むような趣で、読書の醍醐味でした[ヴェネツィアで印刷された、最古のコーランはカステッロ区のサン・フランチェスコ・デッラ・ヴィーニャ教会で保存されています―Alberto Toso Fei著『I segreti del Canal Grande』より]。この著書の中身については実際に本と接して頂くこととして、私なりの恣意的引用を若干試みてみます。

「その活況たるや、それより65年ほど前の1452~55年にかけてグーテンベルクが聖書を印刷したドイツを凌ぐほどだった。実際16世紀前半のヴェネツィアでは、ヨーロッパ中で出版された本のじつに半数が印刷されていた。さらには数だけではなく品質にもすぐれ、《彼の地の印刷者のつくる本は豪華で美しかった。》

16世紀のヴェネツィアで出版業が栄えていなかったらこんにち私たちが手にしている本も、ふつうに話しているイタリア語も、この世に存在しなかったかもしれない。

現在のイタリア語はトスカーナ出身のダンテやペトラルカの作品に基づいているが、その事実を現代にまで知らしめているのが、ヴェネツィアにおいて人文主義のピエトロ・ベンボが監修し、学術出版の祖と呼ばれるアルド・マヌーツィオが印刷した版である。」――ベンボについては2012.01.14日のベンボ館で触れています。
ティツィアーノ『ピエートロ・ベンボの肖像』[ティツィアーノ画『ピエートロ・ベンボの肖像』] 「……文房具店は掛け取引を行うようになり、複式簿記の使用が普及した。これは13~14世紀前半にかけて、ジェノヴァとフィレンツェとヴェネツィアの3国で採用された計算方法である。この複式簿記を最初に理論化したのは――実質的には《発明者》――ラグーサ(ドブロヴニク)の商人ベネデット・コトルリ(クロアチア語でBenko Kotruljic')だった。長らくナポリ王国の裁判官を務めた彼は、15世紀後半に著書を記し、死後百年以上たった1573年にヴェネツィアの《デッレファンテ》社から出版された。

その『商売技術と完全な商人』によって、ヨーロッパに複式簿記が広まり、のちにルカ・パチョーリ[アレッツォ県ボルゴ・サン・セポルクロの人]によってまとめられることになる。いずれにしても、ルネサンス時代のヨーロッパでは複式簿記と商業と印刷の普及においてヴェネツィアは群を抜いた存在だった。」
ルーカ・パチョーリ[ヤーコポ・デ・バルバリ画『ルーカ・パチョーリの肖像』。イタリア・ウィキペディアから借用] 「同じ時期の個人の図書室は蔵書が2千冊を超えることはめったになく、図書館でさえ蔵書は豊富という状態には程遠かった。ウィーンの帝立図書館の蔵書が8万冊に達したのは、1665年になってからのことである(現在の蔵書は300万冊、大英図書館は1400万冊、アメリカの議会図書館に至っては3300万冊)。

ヴェネツィアに話を戻すと、1523年には有力貴族出身のドメニコ・グリマーニ枢機卿の図書室に15000冊(この数字に裏付けはない)、歴史家のマリン・サヌードは6000冊を超える蔵書を所有していたという。《ヴェネツィアでは、18世紀まではこのサヌードほどの個人収集家は存在しなかった。》」
……
「マヌーツィオは現代で言う初の出版人でもあった。それ以前の時代には、印刷工というのは印刷機を扱う作業者に過ぎず、本に対する知識も関心もなく、単なる商品としてしか見なしていなかった。その証拠に、マヌーツィオが活躍する以前の本は誤植だらけだった。
アルド・マヌーツィオ『ヒュプネロトマキア・ポリフィリ』中面[左、アルド・マヌーツィオ。右、彼の出版した出版物の中で最も有名な『ヒュプネロトマキア・ポリフィリ』の中面[通称『ポリフィーロの夢』と言われるこの物語については、『澁澤龍彦全集』13巻(河出書房新社)の中の、《ポリュフィルス狂恋夢》の章で知ることが出来ます]。

……マヌーツィオは知識人で、出版する本も売れ筋の作品だけでなく、きちんと内容を見て選んだ。彼は文化的な教養と技術、そして市場が求めているものを理解する直観を併せ持った稀有な人物で、出版界はこの時代を境に大きく発展する。したがって、さまざまな分野の第一人者がマヌーツィオに協力したのも当然と言えよう。」
……
「有力な商人には、情報が欠かせなかったが、16世紀には現代のような新聞はまだ存在しなかった。その代わり、ヴェネツィア共和国は近代的な外交術によって情報を入手していた。大使や領事によるネットワークは他に類がなく、のちに、イギリスが手本とするほどだった(イタリアは見習わなかった)。

世界初の常設の大使館はヴェネツィアのもので、1431年教皇にエウゲニウス4世(本名ガブリエーレ・コンドゥルマーロ、ヴェネツィア出身)が選出されたのを機にローマに設置され、ヴェネツィア共和国の代表団はヴェネツィア宮に駐在した。

このバルコニーからベニート・ムッソリーニが演説をしたために、不幸にも世界中に名を知られることになった建物である。」
 ――アレッサンドロ・マルツォ・マーニョ著『そのとき、本が生まれた』(清水由貴子訳、柏書房、2013年4月8日)より
  1. 2013/08/31(土) 00:02:10|
  2. ヴェネツィアに関する書籍
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは十数年前。ヴェネツィアには即一目ぼれ。
その結果、伊語勉強のためにヴェネツィアの語学学校に何年間か数ヶ月通いました。
その後もヴェネツィアを訪れるたび、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら書くのが楽しいのです。

*図版はクリックすると拡大されます。

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