イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

文学に表れたヴェネツィア――フーゴー・フォン・ホーフマンスタール

オーストリア人文学者ホーフマンスタール(1874.02.01ウィーン~1929.07.15ロダウン)といえば、人名事典によれば「詩人・劇作家、台本作者。早熟な天才で、夢と現実との交錯の中に繊細な世紀末風の詩を書いて、10代でオーストリア唯美主義を代表する詩人となった。……」とあります。

日本では多分リヒャルト・シュトラウスのオペラ台本を書いたことがよく知られ、『エーレクトラー』(1909)を皮切りに、『薔薇の騎士』(1911)、『ナクソス島のアリアドネー』(初版1911-12、第2版1915-16)、『影のない女』(1914~17)、『エジプトのヘレナ』(1924~27、改作1933)、『アラベラ』(1924~29)の6作のコラボレイションがあるようです。

その彼とヴェネツィアとの繋がりを探索してみますと、岩波文庫版のホーフマンスタール著『チャンドス卿の手紙 他十篇』(檜山哲彦訳、1991年1月16日)に『美しき日々の思いで』という一篇があります。
『チャンドス卿の手紙』「到着したときは太陽はまだかなり高いところにあったが、ぼくはそのまま狭く暗い水路にはいっていかせた。……大広場をとりかこむ豪壮な館のうえには、その大気から沈殿したかのような夕映えの光の息が漂っていた。この光景をはじめて目にした姉弟は、まるで夢のなかだった。カタリーナが右手に目をやると、サンソヴィーノの館があり、あの列柱、あのバルコニー、あの歩廊があり、夕方の光と影がそれらから現実のものとは思えない情景――……」
と、ヴェネツィアに到達したことが分かります。

「……そうすれば、老魚の腹から手づかみで光をとりだせるのだ。呑み込まれてしまった光、それはあの美しい人の声。話をする声ではなく、身をゆだねるときのあのひそやかな笑い声。三叉の杈(やす)を探さなくては! さらに川上の杜松(ねず)の茂みのあいだに。丈は低いが、密生するとしっかりして強いのだ。心変わりしないことこそ杜松の力なのだから。

その茂みのしたにはいりこんでしまうと、ぼくはもはや姿を変えることはなくなるだろう。手だけをつっこんで、三叉の杈をつかもうとする。と、何かぴくりと動く。まだ口づけしたことのないカタリーナの唇だ。ぼくは身を起こし、もはや手をさしこもうとはしなかった。じっさい、そこで探しているものはもはや必要ではなくなっていた。

すでに夜明けが近かった。鐘の音やオルガンの響きが聞こえてくる。きっとカティはもう、そっと階段を降りて、サン・マルコ聖堂でお祈りをしているだろう。子供のように唇を動かして祈ったあとは、金色の礼拝堂のなかで黙ったままうっとり夢見心地になっていることだろう。……」
 ――ホーフマンスタール著『チャンドス卿の手紙 他十篇』(檜山哲彦訳、岩波文庫、1991年1月16日)より
  1. 2013/11/02(土) 00:04:04|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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