イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

文学に表れたヴェネツィア――ヘンリー・ジェイムズ(3)

ヘンリー・ジェイムズと言えば、日本では世界文学全集などで『デイジー・ミラー』や『ねじの回転』等が紹介されています。『ねじの回転』はマイファンウィー・パイパー台本で、ベンジャミン・ブリテンがオペラに作曲し、1954年9月14日ヴェネツィアのフェニーチェ劇場で初演されました(ロンドン初演は同年10月6日)。

兄にアメリカ、プラグマティズム哲学の祖ウィリアム・ジェイムズを持つ小説家は、マルセル・プルーストやジェイムズ・ジョイスの心理小説の祖とも言われ、またイタリア好きの作家として『鳩の翼』同様に『アスパンの恋文』の舞台をヴェネツィアに選んでいます。この小説は前回書きました《バルバロ・クルティス館》で執筆されたようです。

《わたし》は、アメリカの大詩人ジェフリー・アスパンの研究をしており、大詩人が恋人だったミス・ボルドローに送った恋文を見たいと思い、何とか彼女が住むヴェネツィアの館の下宿人になることが出来たのですが……。
『アスパンの恋文』.「……ゴンドラが止まったと思うと眼前には古い邸があった。ひどくおちぶれていたが、ヴェニスでは威厳のある名を保っている種類の邸であった。《何てみごとなんでしょう! くすんだローズ色で》と夫人は叫んだ。これはこの邸にぴったりの描写だった。

とくに古いというのではなくせいぜい二、三百年ぐらいのものであった。落魄(らくはく)という感じよりも、むしろ花を咲かせることなしに終わってしまったというようなうらぶれた様子であった。

しかし広い前面は二階(ピアノ・ノビレ)の端から端まで石のバルコニーが張り出し、その他種々の壁柱やアーチがあって建築として立派なものであった。大部以前に何度か上塗りした漆喰(しっくい)が四月の午後の日差しの中でバラ色に輝いていた。

邸のそばを流れる運河は澄んでいるが、陰気な感じで、船の通ることはめったにない。運河の両岸には狭いリヴァ、つまり、便利な歩道がついていた。……」

「……彼女はわたしのゴンドラに乗り込んだ。祝意を表してわたしは船頭を一人ふやした。
 五分ほど進むと大運河に出た。ミス・ティータはまるでヴェニスに到着したばかりの旅行者のように感嘆のため息をもらした。よく晴れた夏の夕暮の大運河のすばらしさや、きらきら輝く水面上を大理石の宮殿の間を通って進んで行く爽快(そうかい)さを彼女はすっかり忘れてしまっていた。

ゴンドラは遠くまで進んで行った。派手な声をあげて感嘆するわけではないけれど、彼女が夢中になっていることはよくわかった。ただ喜んでいるどころではない。文字通り恍惚として解放感にひたりきっていた。落着いて景色を楽しめるようにゴンドラはゆっくりと進んで行った。

彼女は水を切る櫓の音に一心に聞き入っていたが、その音は船が小運河に入って行くとヴェニスの秘密を告げるかのように高くリズミカルになっていった。……」
  ――ヘンリー・ジェイムズ『アスパンの恋文』(行方昭夫訳、岩波文庫、1998年5月18日)より
  1. 2013/10/05(土) 00:02:39|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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