イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの拳骨橋(2)

前回に書いた拳骨橋について、1863年刊の Giuseppe Tassini 著『ヴェネツィア興味津々(Curiosita` veneziane)』は、次のような事を述べています。

「ヴェネツィアは昔、今日レガッタにその痕跡を留めているような、二つの党派、カステッラーニとニコロッティに分かれていた。前者は町の東端の島カステッロに代表される東の地区の住民、後者はサン・ニコロ・デイ・メンディーコリ教会のある西の地区の住民。前者はベレー帽に赤いスカーフを巻き、後者はベレー帽に黒いスカーフを身に着けた。

彼らの出身地は正確には不明だが、エラクレーアとイエーゾロの町(ラグーナの東に位置する)の間に端を発するいがみ合いを持ったまま、その後、彼らがそれぞれヴェネツィアのその地区に住み着くことになった。カステッロ島に住む司教の殺害はニコロッティの仕業とされた。

共和国政府は肉弾戦で鍛えられた血気盛んな市民確保のために、彼らの敵愾心を増長させ、多分一方を持ち上げると他方は抑える、次回は逆、といったやり方で彼らを分割コントロールした。

両者は互いに、相手を一方的に凌駕しようとし、拳骨の乱闘から、葦を棒状に束ねた物や木の棒の戦争へと変化していった。

この戦いは9月からクリスマスの間にだけ許され、概ね橋の上だけで戦うこととされ、それも《拳骨橋》と通称されるようになったサン・バルナバ橋とサンタ・フォースカ橋がメイン舞台となった。

二つの橋の頂上の平面には足型が嵌め込まれ、戦いはその足型に両者足を置いてから始めることになっていた。一つの橋には現在でも欄干がないように、容易く運河に落下するので、戦闘員はそれに適した服装で、水に落ちるや直ぐに戦闘行為から離脱して、怒りを鎮めることが求められた。
[『ヴェネツィア興味津々』発刊の1863年当時、この二つの橋のどちらか(?)は欄干がなかったようですが、この当時オーストリア占領下で各橋に欄干の設置が促進されました。オーストリア風デザインで造られたので、その欄干を毛嫌いするヴェネツィア人の事を聞いたことがあります。ヴェネツィアのイタリア王国への併合は1866年。]

拳骨戦争は1705年まで続いたが、この年を最後に政庁は厳しく禁止した。
アントーニオ・ストーム画『拳骨戦』[アントーニオ・ストーム画『拳骨橋の戦い』] 最後の戦争の舞台となったサン・バルナバの拳骨橋の戦いは、9月30日に行われ、夥しい流血を見た。拳骨で始まった肉弾戦は最後には岩石や短剣の戦いと変貌した。余りにも熱狂した人々は、偶々発生したサン・ジローラモ修道院の火事にも目も呉れず、消火に駆け付ける者とてなく、サン・バルナバ教会の司祭が、戦闘員達に割って入ろうと十字架を手に飛び出したのだった。

共和国末期は、両者は人間ピラミッド(le forze d'Ercole)やレガッタのような残酷さのないスポーツ等に熱中するしかなかった。」
 ――ジュゼッペ・タッスィーニ著『ヴェネツィア興味津々』(1863)より
  1. 2008/05/09(金) 16:49:45|
  2. ヴェネツィアの橋
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手知ったヴェネツィアを先ずは訪れて、各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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