イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

天正遣欧少年使節(9)と支倉常長

「(続き)――彼らがイタリアの最初の地リヴォルノに上陸するや直ぐにピーザのお城での歓迎の祝宴に招いたのは、フィレンツェ公国大公フランチェスコ1世だった。その夜の舞踏会で伊東マンショと踊ったのは、この大公妃ビアンカ・カッペッロその人。日本人男子とダンスをした最初のイタリア人はヴェネツィア女性だったということになる。

というのは彼女はヴェネツィア貴族バルトロメーオ・カッペッロの娘だったからである。フィレンツェの青年と駆け落ちしたため、共和国からは貴族の資格を剥奪されたが、フランチェスコ大公に見初められ、身体脆弱だった大公妃没後、正式に結婚。その時前夫は既にその浮気相手だったある貴夫人の兄弟達に殺されていた。大公妃になるや共和国は彼女を《ヴェネツィアの娘》と称えた。

四使節歓迎会2年後、1587年トスカーナ大公と大公妃が疫病(?)で同時に死亡。近年、メーディチの墓を暴いてその49人の体格、死因その他を調査するプロジェクトが生まれ、病理学者、薬物史家、法廷毒物学者等が組織されたとヴェネツィアの友人がメールを呉れた。友人はビアンカの砒素による毒殺を主張していた。

その後友人は、2006年12月24日付 Il Giornale 紙の切抜きを送ってくれた。新聞はポッジョ・ア・カイアーノのメーディチ荘でビアンカが夫と共に亡くなったのは、当時囁かれていた噂通り、大公弟フェルディナンド枢機卿[毒殺後大公にのし上がる]に大量の砒素を盛られたがためと結論付けていた[2010年の他チームによる再調査は疫病説を取っている]。

天正使節の後1613年(慶長18年)、伊達政宗が支倉常長をスペインに派遣した。日本人の作った船(サン・ファン・バウティスタ号)で太平洋を横断し、メキシコを越え、大西洋を渡って慶長遣欧使節の一行はマドリードに到着した。マドリードでの交渉は難航し、資金の尽きた彼らをスペイン貴族がここまで来たならローマまで行って来るように、と資金を提供してくれたそうである。

ローマへの途次、地中海をイタリアに向かって航海中、嵐のためにサン・トロペ港に避難した。日本人としてフランスに最初の足跡を標したのは彼らであった。そのことを初めて明らかにしたのは仏文学者高橋邦太郎氏である。仏国のアルフレッド・タンによりカルパントラのアンギャンベルティーヌ図書館からサン・トロペ侯爵の書簡が発見され、氏によりその訳が『朝日新聞』1971年7月29日に紹介されたという。サン・トロペ侯爵は珍しい日本人の様子を事細かく書いているそうである。
Da Sendai a Romaパウルス5世支倉常長の像支倉常長支倉常長展[中央の左右は、「教皇庁から支倉に送られた物。パウルス5世(ボルゲーゼ家出身)と支倉の受洗を知らしめるもの。数珠を持ち、十字架に向かい合掌する姿はバロック期前の作品と思われる。日本に持ち帰られ、仙台藩の手酷い扱いながら、現在に生き延びた」(図版伊語キャプション)。右2点は、ボルゲーゼ家に残ると言われる Archita Ricci 画の肖像画。2014年の支倉常長展で来日しました。]

私がローマで購入した、上掲の『Da Sendai a Roma――Un'ambasceria a Paolo Ⅴ(仙台からローマへ)』(Edizione: Office Move)というA4版の支倉常長に関する本では、ボルゲーゼ家に残されている武士の正装をした彼の肖像画は、Archita Ricci の手になると書かれているが、『支倉常長――武士、ローマを行進す』(ミネルヴァ書房、2007年5月10日)の著者、田中英道教授は、当時ボルゲーゼ宮に滞在していた、伊名クラウディオと通称されていた仏人画家クロード・ドゥルエ(Deruet)の絵と主張されている[伊Claudio(クラウディオ)=仏Claude(クロード)。仏語式にはドゥリュエDeruet?]。

1615年パウルス5世に謁見後、彼らにヴェネツィアにも来て欲しいと要請があったのだが、支倉が体の調子を崩したので、日本から随行していた、ヴェネツィア出身のグレゴーリオ・マティーアスに挨拶状と贈呈品の書物机を託してヴェネツィアに送り、彼はジェーノヴァでグレゴーリオの帰りを待っていた。

明治初期、米欧を回覧した岩倉具視の一行が、イタリア最後の町ヴェネツィアに辿り着いたのは1873年、その地の東洋学者グリエルモ・ベルシェの案内により、国立フラーリ古文書館で慶長使節と天正使節のヴェネツィア共和国への挨拶状を発見し、両使節の研究が日本でも始まることになった。――(終り)」

伊達政宗が慶長使節を派遣した(今年は1613年石巻港出港から400周年記念年)のは、2011年の東北大津波と同じような津波(1611)で破壊された仙台藩を復興すべく、スペインとの交易を目論んだためとされています。彼らが初上陸した(1615.10.18日)イタリアのチヴィタヴェッキアには記念の常長の銅像が建てられ、石巻市はこの町と姉妹都市となっています。またこの町には日本人画家、長谷川路可が修復し、26殉教者等のフレスコ画を描いた教会《日本聖殉教者教会》があります。
支倉常長像 日本聖殉教者教会裏面左、チヴィタヴェッキアの Luigi Calamatta 広場の支倉常長像(ウィキペディアから借用)。右、日本聖殉教者教会パンフレット日本語版。
また聖イグナティウス・デ・ロヨラやフランシスコ・シャビエル(旧ザビエル)等を祀る、ローマにあるイエズス会のジェズ教会には日本の26聖殉教者や5殉教者の磔刑の様を描く当時の絵画が教会奥に保存されています。旅行のついでにお願いし見せて頂いたことがあります。[追記: 26殉教者ではなく、元和の55殉教者の絵でした]
  1. 2013/11/27(水) 00:05:39|
  2. | コメント:0
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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