イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの建物: ヴェンドラミーン・カレルジ館(2)

この館についてAldo・ボーヴァ著『Venezia――I luoghi della musica』(Scuola di Musica Antica Venezia、1995)は、次のような事を述べています。
ヴェネツィアの音楽「1652年アンナ・デ・メーディチとオーストリア皇太子に敬意を表した大舞踏会が催された。1800年代半ばにはカロリーヌ・ド・ブルボン(Carolina di Borbone)王女が、貴族のディレッタント・グループが王家の人のために演ずる舞台の設営をさせた。

1882年秋、リヒャルト・ヴァーグナーが庭に面した中二階の部屋を借りた。毎夕のように、バッハ、特にベートーヴェンのピアノ曲のどれかを弾くか、あるいは何かアリアを歌ったものだった。毎日、毎夜コージマと芸術について、哲学的主題について議論した。コージマ曰く《ルターはテーブルでスピーチをしましたが、私達はベッドに潜ってからも論争したものです。》

その年の11月19日、フランツ・リストがやって来て、上の階を借りることにし、1883年1月13日まで淹留することになった。このアパートにはピアノは1台あるきりだった。2人の音楽家は度々友人達や家族の前で演奏した。

クリスマス・コンサートのためにヴァーグナーは、音楽高校の校長とここで会った。その時彼は《いつもあなた方イタリア人の、芸術的理解に賛辞を送ってきましたが、多分南部気質の所為なのでしょう、しばしば音楽から色々なものを余りにも取り込み過ぎてしまい、必要以上にアップテンポになってしまう傾向がありますね。それが残念です。》と。更に付け加えて《正確にテンポを刻めるようにするということは、音楽教育のイロハだと思いますが。》

ヴァーグナーは1883年2月13日午後3時、ここの部屋で息を引き取った。2月8日コージマは彼が声を張り上げて《Don Giovanni, m'invitasti》を歌うのを聞いている。事実の裏付けは丸でないが、今でもヴェネツィアで語られていることがある、それはその時ヴェネツィアに居たジュゼッペ・ヴェルディが、正にその日彼に会いに向かっていて、彼の名声の真実であることを証言しようとしていたというのである。

その年の4月19日、追悼の音楽記念式典が催された。オーケストラは館前のパレード用の大きな船に設置され、ヴェネツィア貴族のゴンドラや他のあらゆるタイプの船が沢山取り巻いていた。『神々の黄昏(Crepuscolo degli Dei―独語Goetterdaemmerung)』の葬送行進曲が演奏された。

その時以来、館の所有者達、グラーツィア公爵らは毎年市の楽団のコンサートを催し、庭園でシンフォニックな曲やヴァーグナーのオペラからの編曲を演奏した。

彼が亡くなった部屋は現在でも、元々あった家具調度類が保存されており、ヴァーグナー博物館の体裁が整い次第、観覧可能となるだろう。 ……」
『コージマ・ワーグナー』『コージマ・ワーグナー――リストの非凡な娘、そしてワーグナーの最良の妻』(アリス・ソコロフ著、猿田悳・森住衛共訳、音楽之友社、昭和51年6月10日)は、ヴァーグナーがこの館で亡くなった時の模様を次のように描写しています。

「……二月十二日の晩、コージマは日記にワーグナーがどんなふうに『ラインゴルト』の一節を演奏したかを記している。翌朝、彼はまた具合が悪くなり、《今日は気をつけよう》と召使いに言ったりした。ジークフリートにとっては初めてきく母親のピアノだったが、十三日の朝、コージマはシューベルトの『涙の賛美』を軽やかに弾いていた。

召使いがワーグナーの気分がすぐれないので昼食はいらないと言っていると伝えに来た。コージマは彼の部屋に行ったが、発作のある時の常で、ワーグナーは一人でいたいと言った。召使いが部屋のドアのところに立っていることにした。しばらくして、突然ベルが二度鳴って、召使いが急いでかけ寄ると、彼は妻と医者をすぐ連れてくるように言った。

コージマがワーグナーのもとにとんでいくと、彼は長椅子にうずくまっていた。腕に抱きかかえるとまるで眠っているようであり、彼女はそのまま医者がくるまでじっとしていた。一時間近くもたってから医者が来たが、すでにこと切れていた。

この瞬間がくることを彼女は何度想像しただろうか。死においてでさえも彼女の愛するものと別れないように何度祈っただろうか。二十五時間たった後でも彼女は彼の傍らにひざまずいたままで、食事もとらなかったし、休むことも、慰めの言葉も、すべて拒否した。

まわりの者がやっと説得して彼のそばを離れさせた時も、まだ彼女は茫然としていた。遺体を棺桶の中に入れると、彼女は生前彼が愛した長く美しいブロンドの髪を切って入れた。友人や娘たちがすべて事をはこび、彼らはバイロイトへの悲しい旅立ちをした。 ……」
  1. 2014/03/05(水) 00:02:11|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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