イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ソランツォ・カルボ・クロッタ館(2)

ジョヴァンニ・ソランツォ(1240.ヴェネツィア~1328.ヴェネツィア)は、Marcello Brusegan『ヴェネツィア人物事典(I personaggi che hanno fatto grande Venezia)』(Newton Compton editori、2006.11.)によれば、次のような人生を歩んだそうです。
『ヴェネツィア人物事典』「エチオピア南西のカッファ攻略で名を馳せ、キオッジャ、そしてフェッラーラの司法長官として政治行政の役割を担った後、財務官となったアントーニオ・ソランツォの息子で、51代目の総督となった。

1312年72歳の時、総督マリーン・ゾルズィの後を襲った彼は、その行動が堂々として冷徹だったことで知られる。人としても偉大であり、交渉能力に長けており、フェッラーラとの不幸な戦争のために悪化した教皇との関係改善のために専念し、ライバルのジェーノヴァが脅かすオリエント海域の完全な掌握に邁進した。

アルセナーレを拡張して、全ての船舶を増強させ、ダルマツィア沿岸の安全性を更に高めた。エジプトのスルタン、タブリーズ(現イラン――イル・ハーン国)のハーン、トレビゾンド帝国の皇帝と重要な商業条約を取り決め、ビザンティン帝国との新しい友好関係の構築にも努めた。

国内の重要な改革としての、サン・マルコ財務官の再組織、大評議会の“セッラータ”の完成、十人委員会を5年任期として確定、等も手掛けた。

総督在職時、1321年8月、ラヴェンナ公である Guido Novello da Polenta の使節として、ダンテ・アリギエーリがヴェネツィアに赴いたことが記録に残っている。

1328年12月31日88歳で亡くなり、サン・マルコ寺院の洗礼堂に置かれた石棺で彼は眠っている。

フランチェスカ・モリーンと結婚し、3人の息子、マリーノ、ニコロ、Belello と通称されたアントーニオ、そして3人の娘、フォンターナ、エーレナ、ソランザ、最後の娘はバイアモンテ・ティエーポロの国家に対する謀反の主要メンバーの一人であった、不運なニコロ・クェリーニの妻であった。

一家はサンタンジェロ広場の館に住んだ。彼の総督としての仕事は穏やかなものではあったが、非常に建設的に活動したのだった。彼について言われること、それは彼が偉大なるヴェネツィアの principe の一人であったということである。」
 ――M.ブルゼガーン『ヴェネツィア人物事典』(Newton Compton editori、2006.11)
ヴァン・アクセル館《ソランツォ》という名前を耳にすると、ミラーコリ教会近くの、運河沿いに建つ美しい《ソランツォ・ヴァン・アクセル》館が目に浮かびます。
  1. 2014/05/14(水) 00:05:57|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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