イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの建物: ラービア館

サン・ジェレミーア教会の右にはその司祭館があり、更にラービア館があります。この館について、E.&W.エレオドーリ著『大運河』(1993)は次のように述べています。
サンティ・ジェレミーア・エ・ルチーア「1700年代の最も豪華な個人住宅の一つである。17世紀半ばに建築が始まり、繰り返し拡張され、18世紀前半までには現在の規模になった。多分アンドレーア・コミネッリの作品であり、サン・ジェレミーア広場に向かっての最後の拡張にはジョルジョ・マッサーリの名前が登場する。ファサードが三つあり、全てイストラ(Istria)半島産石の大きなブロックであり、富贍な装飾である。

大運河とカンナレージョ運河に面したファサードは、彫刻で飾られ、洗練された柱頭群はロンゲーナに対する称賛を示しており、1階部分の浮き出し飾りのある滑らかな切り石積みはドーリア式、イオニア式の扶壁柱と上の階のコリント式の扶壁柱という二つの様式を示し、その間に、連続的な露台で結ばれた大きなアーチの窓が開けている。屋階の卵形の窓と窓の間には、ラービアの紋章である鷲の彫刻がある。

広場に向いたファサードには、運河側の案が単純化されて採用されているが、より控え目で飾らないものとなっている。館のためとか装飾のためとか言っているが、途方もない費用を要したのである。事実、その素晴らしいフレスコ画は今日でもジャンバティスタ・ティエーポロの作品として輝かしいものであり、その世紀半ばアントニウスとクレオパトラの邂逅と宴の作品でこの中央大広間を飾ったのである。

大芸術家は非常に効果的な遠近法によるクァドゥラトゥーラ(遠近法によって実際の建築との区別が付きにくく描かれた天井画)で描くよう取り計らった友人ジェローラモ・メンゴッツィ・コロンナの傍に居る。特に興味深いのは、宴の場面でティエーポロは自画像を描いており、その左側の人物がメンゴッツィと考えられる。

館は現在、RAI(イタリア放送協会)のヴェネツィア局所在地である。ラービア家はスペインから到来した家系である。ヴェネツィアでの商業活動で大変裕福になり、市民権を獲得し、多大な寄付で貴族になった[イラクリオン戦争(1645~69)の時、10万ドゥカート寄付をし、レッツォーニコ家等と共に貴族に参入(1687年)]。

館は一世紀後には見捨てられたが、ここで評判になったパーティがあった。あるラービア家の者が典型的なスペイン式の豊かさを誇示して、1500年代のキージ公の真似をしたのである。
ラービア館[ラービア館広場側 サイトから借用] 宴終了後、40人の会食者を楽しませようと、宴に出された金の食器全てを運河に放り込み叫んだ。《ラービアであろうとなかろうと、何時でもラービアなんだ》。しかしヴェネツィア人は特有のシャレで穏やかに笑い飛ばして言う。《後で召使いが運河の下に広げた網ネットで受けた貴重な食器を回収するのに一苦労した》、と。」
  1. 2014/06/18(水) 00:04:16|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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