フランチェスコ・ペトラルカ(1304-74)2008 / 06 / 13 ( Fri )
以前書いた Su e Zo per i ponti の文学をテーマ(?)にした2004年の大会は、パーリア橋(Ponte de la Paglia--1360年に架けられたヴェネツィア最古の橋だそうです) を出発し、スキアヴォーニ海岸通り(Riva degli Schiavoni)を東へ向ったと思われますが、次のセポルクロ(Sepolcro)橋を渡ると左の建物のサン・マルコ湾(Bacino S. Marco)に面した壁面(4143番)にプレートが掲げてあります。
「ここは言い伝えによれば、元老院がその使用の自由を提供したフランチェスコ・ペトラルカの家だったという。ヴェネツィア市は生誕600年記念に際し、高名なる客人のことを正式に顕彰する。1904年」(ラテン語の碑文も掲げてあります)。 この碑文の掲げられた館は、当時、二つの塔のモリーン館(Palazzo Molin dalle Due Torri)と言われ、死後その蔵書を共和国に遺贈する(その蔵書は将来のマルチャーナ図書館の基となったそうです)との約束を受けて、ヴェネツィア政庁が詩人のために用意した居館だったようです。 トスカーナと対立するミラーノのヴィスコンティ家の招きに応じた彼を激しく非難した友人のボッカッチョも、詩人がミラーノからヴェネツィアとパードヴァに移り、館を構えた頃になると、度々彼の館を訪ねたといいます。 詩人に傾倒していてよく訪ねてくるヴェネツィア共和国書記官長(1352年就任)ベニンテンディ・ラヴァニャーニが、夕方になるとやって来て、二人を自分のゴンドラに乗せて楽しい舟遊びとなったのだそうです。 1353年ミラーノの僭主ジョヴァンニ・ヴィスコンティ大司教に請われて、ヴィスコンティ家の客人となります。そしてジョヴァンニの願いで、周囲の対ヴィスコンティ同盟に対して最初(1354年)平和要請の書簡をヴェネツィアに送り、総督から返書が届きます。その後外交使節としてヴェネツィアを来訪、共和国の支配層との友好関係を築いたのでした。 外交使節としての任務は不成功ではあったものの、ヴェネツィア人との親交の深まりとともに、1361年ミラーノにペストが襲来したのを機にパードヴァ、そしてヴェネツィアに移り住むこととなりました。 晩年はパードヴァのカッラーラ家から提供された土地、パードヴァ郊外のエウガーネイ丘陵(Colli Euganei)のアルクァ(Arqua`)に、孤独を追求出来る山荘を建て、1370年移住しました。そしてその地で亡くなります(1374年)。 現在はその周辺が公園(Parco Regionale dei Colli Euganei)となり、彼の山荘はペトラルカ博物館(Casa di F. Petrarca)となっているそうです。そして町名も Arqua` Petrarca と呼称されているようです。 ペトラルカ博物館については、次のサイトが写真等大変詳しいですので、ご覧になって下さい。 http://italiashio.exblog.jp/4752528/ アルカ・ペトラルカ・詩人の里・中世の町 |
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1933年の映画『未完成交響曲』はヴィリ・フォルスト監督で、ウィーンの舞台俳優
ハンス・ヤーライとブダペストの舞台女優マルタ・エゲルトが演ペッシェクルード文学に表れたヴェネツィア――シュニッツラーこんばんは、 再度です。
古い映画の話になると、とたんに懐かしくなって・・!
ああ、やはり、そうですね。 ヴィエンナでした。
「未完成交響曲」と言うと、最後のshinkai文学に表れたヴェネツィア――シュニッツラーshinkaiさん、コメント有難うございます。
「シュニッツラー、黄昏、映画」で検索してみました。1934年『たそがれの維納
(ウィーン)』というオーストリア映画が、パウラペッシェクルード文学に表れたヴェネツィア――シュニッツラーこんにちは!
ああ、この部分は素敵ですねぇ!
カザノヴァの抑えた、でも隠し切れない弾む心を感じさせますね。 望郷の念、ですね。
シュニッツラーというと、[shinkaiSeminario Patriarcale(教皇庁セミナーリオ)september30さん、コメント有難うございました。
私も単なる物珍しさだけから大歓迎されたのではないと思います。イエズス会の布教
に応えて、挨拶に地球の裏側からローペッシェクルード