イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの建物: マルチェッロ館

ガッティ・カザッツァ館からサン・マルクオーラ運河、ヴォルピ館を過ぎると有名なヴェンドラミーン・カレルジ館に至ります。この館については2014.02.26日に賭博場のヴェンドラミーン・カレルジとして書きましたので、そちらをご覧下さい。

更に右岸を進みますとマルチェッロ館となります。E.&W.エレオドーリ著i『大運河』(1993)の説明は次のようになっています。
マルチェッロ館他「17~18世紀初頭に建てられた。アーチ型の五連窓は高く細い円柱で支えられ、明るい露台がアクセントとなっている。玄関の二つの大門と各ピアーノ・ノービレに通じる独立した形の階段は、多分2家族用として設置された。1686年有名な作曲家ベネデット・マルチェッロはここで生まれた。」

M.・ブルゼガーン著『ヴェネツィア人物事典』(Newton Compton Editori、2006)はベネデット・マルチェッロについて次のように紹介しています。

「音楽家(1686.6.24/7.24/7.31/8.01ヴェネツィア~1739.7.24/7.25ブレッシャ)[生没年月日は色々あるようです]
彼には音楽家でもあった兄アレッサンドロがあり、貴族の出である。パードヴァ大学法科を卒業し、四十人委員会に入る。1738年までポーラ(現クロアツィアの Pula)のヴェネツィア共和国施政官を務め、同年ブレッシャの財務官に任命された。

ガスパリーニとロッティに学び、音楽と文学の分野で活躍した。作曲家として著名となり(音楽の第一人者と言われた)、詩篇に基づくジェローラモ・アスカーニオ・ジュスティニアーンのテキストにより、8巻からなる荘厳なる作品『Estro poetico-armonico(詩的・諧調的霊感)』(1724~26)は、その他のマドリガルや室内歌曲のような声楽曲とともに、彼がドラマティックなアクセントを持つ力強さを表現出来る音楽家であり、バランスの取れた作曲家であることを示している。

1710年のオラトリオ『ユーディット(Giuditta)』(ユダヤの寡婦。アッシリアに包囲された町を救うために、ネブカドネザルの総大将ホロフェルネスの祝宴の席で彼の首を切り落とす)や5楽器によるコンチェルト集、チェンバロとフルートのソナタ集などの数少ない器楽曲も重要で、多分オペラ『公認の信仰(La fede riconosciuta)』は、詩人としても優れていた彼が書いたものと思われる。また彼が1720年頃、匿名で出版した『当世流行劇場(Teatro alla moda)』は、当時のヴィヴァルディを筆頭とするオペラ界を強烈に諷刺したものとして知られる。

現在のヴェネツィア音楽院(サント・ステーファノ広場一隅のピザーニ館)は、彼の姓名を冠して、ベネデット・マルチェッロ音楽院と称している。」
[2008.12.27日のサンタンジェロ劇場で『当世流行劇場』について触れています]

同じく作曲家であった兄アレッサンドロの作曲した『オーボエ協奏曲』第2楽章は、《ヴェニスの愛》として、頓に有名になりました。
  1. 2014/08/14(木) 00:04:27|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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