イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの建物: エーリッツォ・アッラ・マッダレーナ、ジャ・モリーン館

マルチェッロ館右隣はエーリッツォ・アッラ・マッダレーナ・ジャ・モリーン館(Ca' Erizzo alla Maddalena, gia' Molin)です。E.&W.エレオドーリ著『大運河』(1993)は以下のように述べています。
マルチェッロ館他「15世紀半ば頃と推定されるゴシック建築で、左側部分には四角の枠で囲われたエレガントな五連窓があり、上部アーチ形は天地逆となった薔薇型装飾で、そこからピアーノ・ノービレのサロンは光を採り込み、最上階は装飾を単純化した五連窓が繰り返されている。

1650年にエーリッツォ家の手に渡った。サロンには1470年に亡くなったパーオロ・エーリッツォの英雄的偉業を描いたアンドレーア・チェレスティの2枚の油彩画(1600年代)があった。

他の二人の貴族ルドヴィーコ・カルボとジョヴァンニ・コンドゥルメールと共に、彼はエヴォイア島(Eubea)のカルキス(Negroponte)の戦略的要塞の責任者で、その時トルコ軍が攻撃の陣形を全面展開して砦を攻め立てていた。

彼はヴェネツィアの司令官がよくやるように最後通牒を拒否し、敵の陣形の不備を発見し、勇猛果敢な反撃を当然の事とした。全員虐殺の憂き目に遭ったのだが、最後に敵の手に落ちた彼は、スルタンに頭は見逃すと約束され、残虐凄惨にも2枚の板の間に挟まれて、鋸で体ごと真っ二つに挽き切られた。

エーリッツォ家は9世紀にスロヴェーニアのコーペル(Capodistria)からやって来た古い一族であるが、総督フランチェスコ(1631~46)を生んだ。彼は勇敢な兵士であったが、セレニッシマに長い平和をもたらした。

彼はサン・マルティーノ教会に葬られた。近年分かった事であるが、自分の心臓がサン・マルコ寺院の大祭壇傍に葬られることを望んでいた。何年もの間、モザイクの間に置かれていた心臓形の板が意味していた物は不明になってしまったが、最近の床面発掘調査でその板が移動させられ、小さな箱に入れられたものが総督の心臓であったことが判明した。

エーリッツォ家の者で最後の館の所有者は、狂信的なまでに保守退嬰の人間であった。1700年代初頭亡くなったが、息子があまりにも現代的感性の持主で、“赤い靴下と鬘”を身に着けているのは犯罪的であるとして、息子を廃嫡した。事実可哀想な息子は、額にある目立つ傷痕を隠そうと、フランス到来の鬘という最新流行を身に纏っていたのだった。

父の死去に際して彼は遺言書に異議申立てをした。そしてその訴訟は6000ドゥカートを宗教施設に喜捨するということで解決を見た。」
  1. 2014/09/04(木) 00:01:08|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは十数年前。ヴェネツィアには即一目ぼれ。
その結果、伊語勉強のためにヴェネツィアの語学学校に何年間か数ヶ月通いました。
その後もヴェネツィアを訪れるたび、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら書くのが楽しいのです。

*図版はクリックすると拡大されます。

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