イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの歴史: ヴェネツィア共和国の建国(421年)

例えば、ヴェネツィア大学の日本語科で、ネイティヴ教師をされている中山悦子さんが訳された『図説・ヴェネツィア――「水の都」歴史散歩』(ルカ・コルフェライ著、河出書房新社、1996年1月25日刊)の巻末の年表で、伝説上のヴェネツィア建国は421年となっています。塩野七生さんの『海の都の物語』(上巻)はアッティラの南下(452年)から始まっています。

ヴェネツィアで買った本、Giovanni Distefano『Atlante storico della Serenissima(ヴェネツィア史) 421-1099』(Supernova、2010.02)の421年の項には次のような事が書かれています。
ヴェネツィア史 421-1099「ヴェネツィアの最初の教会建築と建国の伝説上の謂れは3月25日である。その日、世界の創造が祝われた、即ち聖母マリアの受胎告知と架刑のキリストである。4人の司教の前で聖なるジャーコモ・アポーストロに捧げられた初めての聖教会を建設することが、厳かにリアルトで宣言された。

4人の司教とは、ヴェネーティコイ(Venetikoi)と呼ばれた古ヴェーネト人や、本土側に住むヴェーネトの人々と区別するために島の人々と呼ばれた人々の魂を司る司教、パードヴァのセヴェリアーノ(orセヴェリーノ・デ・ダルディ)、アルティーノのイラーリオ、オデルツォのエポーディオ(orグローディオ)、トレヴィーゾのジョコンド(orジョクンド)である。

司教と共にパードヴァから派遣されて来ている3人の執政官が、政治権力の代表として居た。パードヴァの司法権はラグーナを形成する地域の大部分、特に将来ヴェネツィアとなる最初の萌芽としての24軒の家に囲まれた教会のある場所にまで及んでいた。

この3人の執政官は、写本によればガリエーノ・フォンターナ、スィモン・グラヴィコルノ、アントーニオ・カルヴォであった。パードヴァで発見されたヴェネツィア草創期についての文書によれば、その員数は6人であったという。いずれにしても写本が語るところは、3人の執政官が島々を統治したのは34年間であったという。同じ写本は更に、教会が信仰の対象として認められたのは422年のこと、また別の写本は429年のこととしている。

当然の事であるが、我々は伝説の中にドップリ浸かっている。しかし2007年4月13日、ヴェーネト州は法令第8号を可決することになる。それはヴェーネト語を知り、保護し、その使用を促進すること、地名についての調査研究を助成し、援助すること、ヴェネツィアの建国記念日、それは全ての鐘楼の上に輝くシンボルとしての祝日だが、それを制定し、Festa del Popolo Veneto(ヴェーネト人民の祝日)と呼び、“3月25日”という日を思い返すのである。

そのヴェネツィア建国の記念日にヴェーネト史を思い起こすよすがとし、オリジナルな言語的財産を価値あるものとし、文化、風俗習慣、市民道徳の価値を人々に周知徹底させるのである。

続いて波のように押し寄せてきた蛮族のこの地域への侵入という恐怖は、パードヴァ人にラグーナの中に逃げ場を作らねばという思いを抱かせた。

401年アラリック(伊語Alarico―西ゴート族の王)率いる西ゴート族が南下して来たが、別の蛮族の地域にローマの介入で留まった。ヴェローナで彼らを退却させたそのスティリコ(伊語Stilicone―ローマの将軍)はイタリアの解放者として歓迎された(403年)。数年後ラダガイスス(伊語Radagaisoラダガーイゾ―東ゴート族の指揮者でゴート、ヴァンダル、ブルグンド等のゲルマン混成軍を率いた)に率いられたゴートやシュヴァーベンのゲルマン混成軍が荒れ狂い(407年)、直ぐにヴァンダル族がそれを真似た(408年)。[ラダガイスス混成軍はスティリコのローマ軍によりフィエーゾレ近郊で殲滅(406.08.23.)]。

続いて再びアラリックが南下してパードヴァを略奪した。414年には彼の後継者のアタウルフ(伊語Ataulfo―西ゴート族の王。皇帝の妹ガラ・プラキディアを奪い、妻とした――ガッラ・プラチーディア(伊語)の霊廟はラヴェンナにあります)の劫掠があった。町の建国のドキュメントによれば、パードヴァのラジョーネ館の火災(420.02.02)が町を救ったという。その文書はある人は偽造文書としているが、421年執政官がラヴェンナとローマだけに配置されることに反対したのだった。

パードヴァ人の将来のラグーナの中の町の中心と考えられたリアルトのサン・ジャコメット(S.Giacometo)教会の建設を監督すべく、6人の執政官が任命されたのだが、3人はその仕事の遂行を手助けする者であり、あとの3人は、2年後にはそこに定住を始めるが、その実現をコントロールする者であった。……」
  1. 2014/10/23(木) 00:07:34|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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