イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの歴史: アッティラの劫掠(452年)

Giovanni Distefano『ヴェネツィア史 421-1099』(Supernova、2010.02)の452年の項にはアッティラの劫掠についての記述があります。
ヴェネツィア史 421-1099「452年= ラグーナの島々は、434年からフン族の王アッティラ(Attila)の本土側への侵入を恐れ、逃げ落ちる先となっていた。アッティラの南下で、最初のヴェネツィア(Prima Venetia)が避難民達により形作られ、第二のヴェネツィア(Seconda Venetia)は裕福な避難民達が更に新しい時代を切り開いた。

しかしマルティーノ・ダ・カナールが語るように、ラグーナに移り住んだ人々は《大量の金銀》を持参してきたので、今やラグーナのヴェネツィアと本土のヴェネツィアの分離が始まったのである。
アエティウスアッティラ左、アエティウス。右、アッティラ。両者PCサイトから借用
451年ガリアで西ローマ帝国の将軍アエティウス(Ezio)に敗れたアッティラは、パンノニアで軍隊を再編し、北西アルプス(Alpi Giulie)を経てイタリアへ南下し、アクイレーイアを包囲した――この町は誕生以来632年間、誰にも征服されたことはなかった――3ヶ月の攻略で攻め落とされ、大半を破壊し尽くされた。

更にヴェーネト内陸に侵攻すると、世紀初めのアラリックや他の蛮族の侵入で生じた避難逃亡のように、ラグーナの島々への次なる新たな移動の引き金になった。アクイレーイア以外にも、ドミノ現象でコンコルディア、オデルツォ、アルティーノ、パードヴァ、エステの人民も移り住んだ。

その移動騒ぎは、多分近隣のせっぱ詰まった状況にある人々の興味を呼び、自分の田舎から近いラグーナの中の島々で生き永らえることの出来る希望を与え、自分達が作り住んでいた社会を後にしたのであった。」

日本の百科事典から、フン族の支配者アッティラ(?-453)の概略を引用してみます。
「434年その兄弟ブレダとフン族の共同支配者となったが、445年彼を殺し独裁者となった。版図は今日のハンガリーを中心に東カフカス、西ライン川、北デンマーク、南ドン川右岸まで。447年彼の軍はトラキア地方を蹂躙し、テルモピュライとコンスタンティノープルに近付いた。その間70の都市城砦を陥れた。このためビザンティン帝国は和平のため彼に莫大な賠償金を約束した。

451年彼の軍はガリアに侵入、カタラウヌム平原でアエティウスの西ローマ軍と西ゴート・ブルグント諸族連合軍に大敗(カタラウヌムの戦)。452年彼は北イタリアを劫掠、アクイレーイア、パードヴァ、ミラーノ等を攻略して西ローマ帝国から莫大な賠償金を取り、本拠地のパンノニアに帰ったが、間もなく病死した。」
  1. 2014/10/30(木) 00:07:11|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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