イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの建物: グッソーニ・グリマーニ・デッラ・ヴィーダ館(2)

また一方、ルッソ著『ヴェネツィアの館』(1998)は、このグッソーニ館について次のように言っています。
ヴェネツィアの邸館「グッソーニ家のためのミケーレ・サンミケーリ案によるこの建物は、1500年代半ばのヴェーネト・ビザンティン様式で建てられたものである。今日では消滅してしまったファサードのフレスコ画は、ティントレットに依頼されたもので、フィレンツェのメーディチ家の墓のためにミケランジェロが彫った『曙(Aurora)』と『夕暮(Crepuscolo)』にインスピレーションを得て描いた二つの作品がそれである。あと二つは『アダムとイヴ』と『カインとアベル(アダムとイヴの息子達)』の絵に霊感を得たものであった。
『曙』と『夕暮』[フィレンツェ、サン・ロレンツォ教会メーディチ家礼拝堂の聖具室のミケランジェロの彫刻『曙』『夕暮』『昼』『夜』の内、豪華王孫ウルビーノ公ロレンツォの廟墓を飾る2点の彫刻]
グッソーニ家は11世紀初頭ヴェネツィアに到来した。その時サンタ・ソフィーア教会建設に尽力した。一家には沢山の人物、即ち騎士、元老院議員、ヨーロッパの宮廷に派遣された大使らが数多く登場する。

マルコ・グッソーニは、総督エンリーコ・ダンドロと共に、ザダル(クロアティア―伊語Zara)の制圧、1204年のコンスタンティノープル(Costantinopoli)の占領に参軍した。

1735年元老院議員ジューリオの死で、1500年代の居館は妻のファウスティーナ・ラザーリと娘のジュスティニアーナに二等分して遺された。

娘については特に、ベルガモの貴族フランチェスコ・タッシス伯との愛の逃避行、そしてその非合法の結婚で知られる。事実ジュスティニアーナは、1731年12月16日の日曜日、一人ゴンドラで逃げ出し、別の船で待つタッシス伯の元へ急いだ。郵便馬車でパードヴァに着き、一人乗りの2輪馬車で逃亡を続け、ヴェネツィア共和国の国境を越えた。

《同夜、教区司祭と証人の面前で》結婚式が執り行われ、同伯は十人委員会にその旨を書面で何度か告げた。しかし十人委員会はその事を決して承認することなく、彼の逮捕令を発した。伯爵は、不服従ということで追放され、ジュスティニアーナはヴェネツィアに戻り、ピエーロ・マリーア・クルティと結婚した。

色々の所有者の手を経て、館はユダヤ人の裕福な実業家チェーザレ・デッラ・ヴィーダの手に渡った。館の名前はそこから来ているが、その後、財務省直接税調査局の在所となった。」
  1. 2014/11/13(木) 00:06:18|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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