イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの伝説: 初代総督パオルッチョ・アナフェースト(697~716)(1)

新年明けましておめでとうございます。

Marcello Brusegan著『ヴェネツィアの伝説と神話』の中に、初代ドージェ、パオルッチョ・アナフェーストについての神話伝説的記述《パオルッチョ・アナフェースト、最初のヴェネツィア総督選出》があります。読んでみましょう。
Marcello Brusegan『ヴェネツィアの神話と伝説』「ランゴバルド族による568年のアクイレーイアの征服、ラグーナ内の最も安全な地帯グラードへの大司教パオリーノの蒼惶とした逃亡は、ヴェネツィアが公式にも誕生したことを明確に示している。事実パオリーノは、破壊され占領されたアクイレーイアを逃げ出す時、キリスト教精神をしかと心に留め、全ての侵入者、あらゆる脅しに対する叛旗を高く掲げ、アクイレーイアの聖人や殉教者の聖遺物と共に逃亡した。

それは残酷で神を持たぬ蛮族の押し寄せる波の防波堤となったのである。侵入という危険に対しては浅瀬や Velma(=伊語 melma ラグーナ内のぬかるみ)で守られたラグーナの住民達に精神生活と市民生活というものが生まれた。それは直ぐ後にグラードの総大司教となった大司教の存在によって守られたのである。

ランゴバルド族とビザンティン間の反目は、大変激しく大きなものであり、6~7世紀の間、数十年にも及んだ。この二つの民族の争いは、解決を見ないまま何年も続き、帝国のヴェーネト地域、アウグストゥス帝の古い第10州はビザンティンにとって、本土側のほんの僅かの土地、ストラ半島を残すのみにだんだん追い込まれた。正にこの時代、ラグーナのコロニー化が最終的な局面を迎えた。

ランゴバルドの圧迫の前で、脅威はますます強くなり、ビザンティンの持つローマらしさはますます東へ、アドリア海岸際へと追いやられ、活動出来る地域は限られて、まるで東ローマ帝国の憎まれっ子の息子達は海に放り込まれそうで、ますます増える逃亡者達はラグーナの島々へ移動していき、より組織的で自治独立したコミュニティーを作り上げた。

本土のランゴバルドの地域とラグーナのビザンティンに属する地域との間の政治的断絶は非常に明白である。一方の側が、ランゴバルド王国とそれに従う公国、もう一方が、゛軍事の専門家゛に支えられたラヴェンナのビザンティン管区に従うビザンティンの領域、即ち、軍隊司令官は639年までオデルツォに居住したが、640年からエラクレーアのチッタノーヴァに移動した。

色々の執政官はこれらの国に所属していたが、彼らはそれぞれ独立した島や海岸を統治し、今まさにそこは住民のセンターになりつつあった。これらの執政官は最高の資産家、最も裕福な一家と一体となって行動するのだが、彼らは軍事的必要から、法的行政的任務を任されてコミュニティーを指導した。 ……」  (続く)
  1. 2015/01/01(木) 00:07:58|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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