イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの歴史: 726-27年

ルカ・コルフェライ著『図説 ヴェネツィア』(中山悦子訳、河出書房新社)の巻末年表、726-27年の項は「ローマ公領とビザンツ帝国の対立。ヴェネツィアはローマ側につく」とあります。G.ディステーファノ著『ヴェネツィア史 421-1099』(Supernova)の726年の項を読んでみました。
ヴェネツィア史 421-1099「ビザンツ皇帝レオ3世(basileus Leone Isaurico、717-41)は、ローマ人のような聖画を崇拝するというやり方には反対で、そうした宗教画の撲滅を指示し、その破壊を始めた。彼の確信は、国外の聖画は国内の物に比して疎外されたものであり、遠ざけ、廃止すべきものということであった。

しかしこの法令は、先見の明に満ちた伝説から来るものであろう。二人のユダヤ人が、彼が聖書で禁じられている聖画を打ち壊せば、帝位に就いて、長い王朝が続くと予言したことにもよるだろう。

最初、この法令にはコンスタンティノープル(Costantinopoli)で、抑えることの出来ない反発を引き起こしたが、町は次第に、偶像崇拝と考えられた聖画から解放されていった。

教皇グレゴリウス2世(Gregorio Ⅱ、715-31)は、《宗教画の中に、天と現世の間での一つのシンボル、瞑想の要素》を見、イタリア人にこの法令に従わないよう、指令した(727年)。

ヴェーネト人は教皇庁の指示に従い、ラヴェンナではパウルス・エザルカ(esarca Paolo)がbasileus(皇帝)の意に従わせようとしたために、人民の激しい抵抗を引き起こし、その中で殺されてしまった。ヴェネツィア総督府とコンスタンティノープルの間に、大きな綻びが生じた。」

この記述を読むと、上記引用の『図説 ヴェネツィア』の「……ヴェネツィアはローマ側につく」の意味するところが分かります。
  1. 2015/02/05(木) 00:03:05|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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