イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

インテルプレティ・ヴェネツィアーニ(ヴェネツィア室内合奏団)(1)

過日、ヴェネツィア室内合奏団《インテルプレティ・ヴェネツィアーニ》がまた来日しましたので、横浜みなとみらいホールに聴きに行ってきました。2000年5月に初来日以来、今回で何度目の訪日になるのでしょうか?

団長のチェンバロ奏者パーオロ・コニョラートさんによって1987年に結成されたこの合奏団の演奏を初めて聴いたのは、14年前サント・ステーファノ教会ででした。その後サン・サムエーレ教会、またリアルトのサン・バルトロメーオ教会で何度か聴きました。そして現在はサン・ヴィターレ教会(私の好きな画家カルパッチョの『馬上の聖ウィターリス(S.Vitalis=S.Vitale=S.Vidal)』が中央の主祭壇にあります)で、定期的に演奏活動を行っています。

今回来日された方々は、この2月にヴェネツィアで聴いた時のメンバーとは多少異なっていましたが、コントラバスを奏されたジャンニ・アマディーオさんは、サント・ステーファノ広場の隣の広場にあるサン・マウリーツィオ教会が現在無料の古楽器博物館になっていて、そこで偶々、古いコントラバスを見ている時、背後から声を掛けてきた人でした。

実は自分もこの楽器を演奏するのだが、とその楽器の説明をしてくれた、陽気で人懐っこい顔立ちのオジサンでした。みなとみらいホールでの演奏終了後サイン会があり、列に並ぶと彼にあなたの顔は見覚えがあると言われてしまいました。サン・ヴィターレ教会にまた聴きに行きます、と返事しました(チェロ奏者のダーヴィデさんの父君と知りました)。

今回のヴィヴァルディの演目には、ヴァイオリニストの礒絵里子さんとの共演の『四季』がありました。世界で最もポピュラーといわれるこの曲を聴くと、ヴェネツィアの春夏秋冬が目前を過ぎっていくようになりました。

アントーニオ・ヴィヴァルディは1678年、ヴェネツィアに生まれました(かつては1675年頃と言われていたようです――古い音楽事典)。スキアヴォーニ海岸通り(Riva degli Schiavoni)から中へ入ったバンディエーラ・エ・モーロ広場(Campo Bandiera e Moro o de la Bragora)にあるサン・ジョヴァンニ・イン・ブラーゴラ教会に行くと、教会前にヴィヴァルディがここで洗礼を受けたことを示すプレートが掲げてあります。

教会内部に入って直ぐ左の壁面を見ると、次のような古い文書のコピーが貼ってあります。
ヴィヴァルディの出生証明書の写し「アントーニオ・ヴィヴァルディの洗礼記録: 故アゴスティーノ・ヴィヴァルディの息子、演奏家のジャンバッティスタと、故カミッロ・カリッキオの娘、ジャンバッティスタの妻カミッラとの間の息子であるアントーニオ・ヴィヴァルディは、去る3月4日に誕生し、死の危険もある中、自宅で産婆のマルゲリータ・ヴェロネーゼ氏に洗礼名を授けられた。本日この教会に連れてこられ、私こと教区司祭ジャーコモ・フォルナチェーリにより、祓魔式と聖油を受けた。……」

彼は司祭になったのですが、スキアヴォーニ海岸通りにあるサンタ・マリーア・デッラ・ヴィズィタツィオーネ教会、通称ラ・ピエタ教会の養育院のヴァイオリン指導者となります。1348年に設立されたこのピエタ養育院は、ヴィヴァルディの時代、音楽学校の体裁も持っていました(ヴェネツィアの音楽院化した四つの養育院を手本に、世界各地にコンセールヴァトワールが作られたと言います)。

彼は1703~40年の間、断続的にピエタ養育院の女子を指導し、ここの楽団をヨーロッパ随一のものに育て上げました(彼女達の演奏時の服の色は赤だったそうです)。ピエタ通り(Calle de la Pieta`)の入口に次のようなプレートが掲げてあります。
ピエタ養育院のヴィヴァルディについての碑「この場所にはピエタ音楽院の音楽堂が建っていた。当時その才能は十全に理解されていなかったが、ここでアントーニオ・ヴィヴァルディが1703~1740年の間《コンサート・マスター》として作曲し、ヴェネツィアそして全世界に比類なき豊饒の音楽を提供した。中でも『四季』は音楽の精華である。彼の時代が今や訪れた。」

以前にこの通りの奥に小さなヴィヴァルディ博物館がありましたが、展示物の貧弱さに比し、入場料が割高だったのか、入場した翌年には姿を消してしまいました。

1740年にヴィヴァルディはヴェネツィアを出立します。彼がウィーンの貧民墓地に1741年7月28日葬られたことが判明したのは、それから200年も後のことで、埋葬の何日か前、貧窮の内に亡くなったと考えられています。
  1. 2008/07/15(火) 11:35:41|
  2. 音楽
  3. | コメント:2
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コメント

こんばんは。
確か前は金曜日更新だったのに、今月は日曜日ですね。カレンダーの更新部分が揃っていると、とても几帳面な印象を受けます。
まさかカントのように、きっちり生活時間が分単位で決まっているとか?(笑)

さて本題。
私は幼少期から仕事までずっと音楽関係でしたが、クラシックをやりながら全然勉強しなかったため、ヴィヴァルディがヴェネツィア出身だとは知りませんでした。
以前の記事で、養育院が音楽学校の役目を果たしていたと書いておられましたが、コンセルヴァトワールの祖がヴェネツィア、しかもヴィヴァルディの功績だったとは・・・。
大変勉強になりました。ヴィヴァルディ嫌いのM川先生も、この功績はお認めにならざるを得ないでしょう。

でも、博物館が貧弱で閉鎖になったというのは、あまりといえばあまりの仕打ちですね。
あれだけの膨大な作品がありながら、自筆譜とか何か、なかったんでしょうか?
「四季」の自筆譜だけでも、世界中からファンが来そうなものですが・・・。
ヴェネツィアを出た翌年、貧窮のうちに亡くなり、200年も不明だったというのも、音楽院での栄光と比べてびっくりです。

芸術関係では、生前は貧窮、または没後に忘れられ、かなり経ってから高い評価を受けることが多いですね(画家の方がひどいかも?)。
生前裕福だったのは、お坊ちゃんのメンデルスゾーンくらい(そのおかげでマタイ受難曲を発掘、忘れられていたセバスチャン・バッハを世に知らしめた)でしょうか?

いつもいろいろ勉強させて頂き、ありがとうございます。またお邪魔します。
  1. 2008/08/27(水) 12:35:46 |
  2. URL |
  3. キリコ #eSLToZDQ
  4. [ 編集 ]

コメント、有り難うございました。
ヴェネツィアに行くようになって、ヴィヴァルディに格別な興味を持ったのでもう少し書いてみます。

彼についての研究は、特に20世紀に入ってからことのようです。1930年頃、トリーノ国立図書館が彼の手稿を大量に入手してからのことではないでしょうか。私はロラン・ド・カンデ著『ヴィヴァルディ』(戸口幸策訳、白水社)を読んでからヴィヴァルディに興味を持つようになったのですが、そこから色々な事が開けてきました(ヴェネツィア的にも)。

パンシェルルやリナルディ等の研究者、1938年にウィーンで彼の埋葬証明書を発見したロドルフォ・ガッロ。私の持つ戦前のイタリアの音楽事典では、生年月日が現在と異なります。オペラの数は段々増えてきて今では50以上になっているようです。まだまだ新しい事実が掘り起こされつつあるようです。

彼は司祭でもあったのですが、病気を理由にミサを挙げたこともなく、弟子のアンナを連れ歩き、スキャンダルの原因となり、フェッラーラでのコンサートの時も、その事がもとで町に入れて貰えなかったといいます。

1500年代ヴェネツィアはあらゆる出版物の世界のセンターでした。楽譜出版然りです。パリも比ではありませんでしたが、この時代彼がアムステルダムのロジェ出版から『調和の幻想』その他を出版しているということは、ここでの出版が既に落ち目になっていたということでしょうか。

彼の博物館が時を経ずして閉鎖されたのは、展示物が殆どコピー品であったことや展示方法も彼の人となりが分かるようなものでもなく(やっつけ仕事?)、その施設の母体が脆弱だったのではないかと思います。単なるお金儲けという気がしたのです。

彼についての研究が始まったきっかけは、バッハが彼の曲を編曲したものが残っていたために、彼の名が注目されたことからだったようですので、バッハに感謝しなければならないのですが、ゲーテの言う「君よ知るや”南の国”」は明るく太陽が輝いている国なのに、北の人の編曲は重苦しく、気分も滅入りがちです(ハレ生れの人の曲は楽しいのに)。
変な感想で申し訳ありません。今後ともよろしくお願いします。
  1. 2008/08/27(水) 15:56:13 |
  2. URL |
  3. ペッシェクルード #/plE8HKU
  4. [ 編集 ]

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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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