イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィア総督: フランチェスコ・モロズィーニ(1)

前々回に触れたフランチェスコ・モロズィーニについて、Marcello Brusegan著『ヴェネツィア人物事典』(Newton Compton editori、2006)は次のように紹介しています。
『ヴェネツィア人物事典』「総督フランチェスコ・モロズィーニ(1618ヴェネツィア~1694ギリシア、ナフプリオン[Nauplia])
彼はこの世紀最大の海軍指揮官の一人だった。1618年サン・マルコ財務官の父ピエートロ・モロズィーニと母マリーア(モロズィーニの分家の一つ)の間の息子でヴェネツィアで生まれた。若くして兵役に就き、直ぐに攻撃的で勇敢な兵士として注目を惹くようになった。

1645年には既にガレー船の船長となり、3ヶ月後にはクレタ島での対トルコ戦争で功績を上げ、ヴェネツィア海軍の総大将として招聘されるまでになった。

1650年、ナクソス島(Nasso―エーゲ海南部キクラーデス諸島最大の島)でヴェネツィア勝利の立役者となり、その勇気ある行動で名誉を得、ヴェネツィア海軍の司令長官に任命された。1654年アテネの外港ピイレエフス(Pireo)の前に位置するアイギナ(Egina)島のトルコの全砲座を破壊した。2年後クレタ島を包囲するトルコ軍を敗走させ、撤退を余儀なくさせた。

短期間のフリウーリでの政庁の仕事を終えて(1663)、1666年クレタ島に戻った。そこではトルコの大臣アフメート・クロプル(Ahmet Kropulu)の軍隊に対する防衛軍の隊長であった。それは記憶に残る包囲戦だった。執拗極まりない、酷い流血に満ちたものだったと歴史は語っている。28ヶ月間持ち堪えた。傷つきながらもモロズィーニは、自分のことにはお構いなしだった。彼の英雄的行動は全ヨーロッパの若き騎士達の手本となった。

しかしながらその彼と彼の部下の勇敢さは(結局防衛軍の30000人が戦士)、圧倒的な敵の力の前では為すすべもなかった。しかしトルコの偉大なる大臣クロプルは、彼の戦争遂行の徳の高さと能力の高さ、意志の強さに感動の余り、彼と彼の部下に対して、名誉ある退却という寛大なる保証を与えた。

1669年9月27日、カンディアの守備隊の辛うじて生き残った者達とイタリア人住民全てを満載した商船15隻と40艘余りの船が出発した。

ヴェネツィアに到着すると、前もって元老院の許可を得ず、島を敵に譲った罪で逮捕され、裏切り者として人民の前に引き出された。

しかし無罪宣告され、最初は疎外状態にあったものの、復職なった1684年には雪辱なり、遠征隊の長として活躍し、16日の遠征でサンタ・マーウラ島を征服した。ペロポネソス半島に上陸し、更にアテネを征服した。……」 (続く)
  1. 2015/04/16(木) 00:04:20|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは十数年前。ヴェネツィアには即一目ぼれ。
その結果、伊語勉強のためにヴェネツィアの語学学校に何年間か数ヶ月通いました。
その後もヴェネツィアを訪れるたび、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら書くのが楽しいのです。

*図版はクリックすると拡大されます。

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