イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィア総督: フランチェスコ・モロズィーニ(2)

(続き)
「ギリシアの首都を征服する戦いの間、モロズィーニは人口に膾炙した、全世界を悲しみに打ち震わすばかりの、悪逆の限りを尽くした。パルテノン神殿を倉庫として保管されていた火薬を砲撃させたために大爆発を起こし、ギリシア神殿の一部を破壊させてしまったのである。

残念なことにこの恐るべき戦闘期間中の芸術作品に及ぼした損害は、それだけではなかった。古典古代の大彫刻家の作品、ミネルヴァの彫像(Fidia の) がヴェネツィア人が廃墟から引き出そうとしている最中、粉々になってしまったのである。
[Fidia=古代ギリシアの大彫刻家フェイディアス。アテナイのアクロポリスに立つパルテノンの本尊アテナ・パルテノスやオリュンピアのゼウス神殿のゼウス像で著名。パルテノン神殿建造の総監督を務めた]


しかしこのペロポネソス(Morea)戦争中、彼の受けた軍事的な高い評価は、モロズィーニがペロポネソス公(Peloponnesiaco)という称号を祖国に齎したことであり、現在でも生きているかのように彼の胸像が総督宮殿に置かれている。

その直後、1688年人民から歓呼の声で迎えられ、総督マルカントーニオ・ジュスティニアーンの後を継いで、国家の最高職に就いた。

1689年には教皇アレクサンデル8世が、兜と剣を彼に送った。そこに示された紋章は、異教徒に対するキリスト教の守護者として大いなる責任を記憶するためのものである。

1693年未だ75歳でトルコの脅威の前で、ヴェネツィア海軍の長として参軍し、エーゲ海でのオスマントルコとの戦いに赴いた。しかし旗艦の一番高い旗竿の天辺に軍旗がはためいても、彼の活躍する場はなかった。全てのトルコ船は消えていった。

戦争生活を完徹し、疲労困憊して、1694年1月6日、Nauplia(ギリシアのナフプリオンNavplion、古称ナウプリア) で戦死した。亡骸はサンタントーニオ教会に運ばれ、棺台に置かれた。心臓と内臓はそこに葬られた。遺体はヴェネツィアに運ばれ、サント・ステーファノ教会中央に埋葬された。彼は今でもそこに眠っている。」
 ――Marcello Brusegan『ヴェネツィア人物事典』(Newton Compton editori、2006)
  1. 2015/04/23(木) 00:05:25|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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