イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

文学に表れたヴェネツィア――成瀬無極(2)

前回紹介した『世界紀行文學全集 5 イタリア』(修道社、昭和四十六年九月三十日)の、独文学者成瀬無極の欧州紀行『夢作る人』(大正十三年七月)の中の、『伊太利小景』から続きです。
世界紀行文学全集「……サン・マルコの広場(ピヤッツァ)へ出てみて矢張り驚いた。ミラノのとは全然様式を異にした東洋趣味の豊かな光彩陸離の大伽藍を正面にして例のガレリアが左右を囲み、中央の広場には無数の鳩が遊んでいる。すべてが大理石だ。それが云わば水に浮いているのだから不思議である。

それにサン・マルコ伽藍の側面も内部も燦爛たる絵模様で飾られているが、それが皆モザイークなのである。近くで見ると重そうで、下の広場(ピヤッツァ)から眺めると鹿の様に軽くみえるとゲエテが訝った二頭の馬が正面の屋根の上に悠然と立っている。近くに聳えている塔から街と海とを眺めた景色も美しい。

聖水に指を浸し、釘打たれた主の足に触れて十字切りつつ跪拝する男女の姿が此処でも私の心を捉えた。暫時私達も信者の間に交じって礼拝の儀式の終るのを待っていた。金銀五彩に色どった聖母の像を描いた護符を一枚記念に僧侶の手から受けて帰った。

帰朝して間も無く旧師H博士を病床に訪うて、心に快癒を祈りつつその護符を枕元に置いてきたが、その翌日は早くも不帰の客となられた。《サン・マルコ鐘は鳴る――》 あの詩に更に悲しい弔いの一連を添えねばならぬ。

《太守の宮殿(パラッツォ・ドゥカアレ)》は無暗に大きなもので、案内者が幾人も交替して見物の心胆と懐中とを寒からしめる。もう一つ吾々を戦慄させるものは昔の牢獄の跡で、例の「鉛屋(ピオムビ)は十八世紀末に取り壊されたとあるが穴倉で水責めの苦みを与えるような設備の名残が見られる。散々呵責してから水葬という手順であろう。実際はそういう惨酷な事はしなかったのだと弁護する人もあるようだが、見る眼に偽りはない。

しかしそれも「嘆きの橋(ポンテ・デ・ソスピリ)となると美しく詩化せられる。《われヴェニスに来て嘆かいの橋の上に立てり、宮殿と牢獄と相対し、魔杖もて触れしが如く浪間より諸々の建物の浮び出ずるを見たり》 とバイロン卿が「チャイルド・ハロルドの中で歌っている。罪人の血の涙が沁み込んでいるような橋だ。

大広間に世界最大の油絵だと云うチントレットの「天国の図」がある。光線を調節するために箱(カメラ)を貸して覗かせるのは面白い。その他無数の絵画があるが、一々覚えていない。

チチヤンの「クリストオファ」などが眼に止まっている。同じ人の《聖母(マリア)昇天の図》の行方を尋ねて《サン・マリヤ・フェラリ》とかいう小さい御寺へ行ったりした。美術館で逸品とせられていたこの大作が戦争の為めであろう、こういう場所へ移されたのである。 ……」
  1. 2015/05/07(木) 00:04:22|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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