イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの歴史: 774~810年

『図説 ヴェネツィア』(ルカ・コルフェライ著、中山悦子訳、河出書房新社)の巻末年表の774~810年の項には《カール大帝率いるフランク族がランゴバルド領を征服。ラグーナにまで達する。ヴェネツィアはビザンツ艦隊の到着により救われる》とあり、810年の項には《ラグーナの政治の中心、リヴォアルトへ移る。ヴェネツィアの中心としてのサン・マルコの核が生まれる》とあります。
ヴェネツィア史 421-1099G.ディステーファノ著『ヴェネツィア史 421-1099』の810年項には次のような記述があります。

「シャルマーニュ(Carlo Magno―カール大帝)の息子で、781年からイタリアの王であったピピン(Pipino) は、いわゆる〝ヴェネツィア共和国″を攻撃したフランクのラグーン攻撃隊の指導者であった。戦闘行為は春に始まった。彼らは中心のマラモッコに代表される地域を〝大漁"として得るために、全ての河口は押さえており、共和国の南北の島々は支配下に置かれていた。

それは歴史上、決定的な時であった。時あたかも蛮族に追われて逃亡を繰り返していた。グラードやカーオルレ、あるいは二つの、元のエラクレーアやイエーゾレの島といった共和国周辺の島々の住民達は、〝中心″を目指して逃亡し、ヴェネツィアのラグーナの島々(その中にはトルチェッロ島をはじめ、ムラーノ、リアルト、マラモッコ、ペッレストリーナといった大きな島が含まれる)が守護してくれた。

中心は、当時総督オベレーリオと彼の忠実な部下である弟のベアートが守護していたが、ビザンティンに与する連中の反乱で引っくり返され、攻撃に晒され、包囲された。

他の年代記は語っている。ベアートは逃亡しておらず、ビザンティンに与する軍隊に守られ、1年間リアルトを在所として総督は留まった。確かな事は、14世紀になって初めて、総督達の肖像画が描かれることになるが、その大評議会の紋章の中にベアートの肖像が描かれたのである。リアルトの最初の総督として、間違えられたのだった。

続いて総督宮殿の大火の後、1577年肖像画が描き直された時、オベレーリオは適正な場所を得た。

フランク軍に対する勇猛果敢な防衛活動の中で、エラクレーアの裕福な資産家アンジェロ・パルテチパーツィオは際立った活動をした。彼は中心の町から避難してある程度高さのある島々に引きこもるよう言った(高さがないと満潮時水没する―サン・マルコ広場に設けられた政治の中心とリアルトの商業地区は将来においても変わりはない)。何故かならば、エラクレーアのこの裕福な資産家は、ピピンの艦隊への対応計画は、ヴィットーリオの考えに基づいて手筈を整えていたからである。

ピピンは水に対して、況してやラグーナが〝落とし穴″に満ちていることについてなど未経験で丸で無知であった。事実、ランゴバルドやフランク人から構成された軍隊、即ちこのような環境で戦うことに慣れていない人々は、数ヵ月が過ぎ、夏が来て灼熱となり、水の調達が不可能となり、足掻き回り、力尽きていった。

ピピンは最後の攻撃を放棄し、ヴェーネト人の行動的で有効な守りの前に敗れていった。即ち逃げる振りをする小さな舟に惹きつけられ、目の前のその光景を信じ、ある運河の中まで追い掛け、突如やって来た干潮のために船団は座礁してしまったのである。その運河は孤児運河(Canal Orfano o Canal dell'Orfano)と呼ばれることになる。全ての船は完全に破壊され、船乗り達は殲滅された。ピピンはラヴェンナから来たのだが、またそこに引き返すしかなかった。

ヴェネツィアは救われ、ビザンティン主義者のアンジェロ・パルテチパーツィオ(在位811~827)は歓呼して総督に迎えられた。

皇帝コンスタンティノス7世ポルフィロジェーニト(basileus Costantino Ⅶ Porfirogenito、913~959)はこの事実を再構成している。ヴェーネト人が通行を阻止するために水の中に杭を打ち込んだため、ピピンはマラモッコに軍隊を上陸させることが出来ず、本土側に宿営した。攻略は6ヶ月にも及んだ。

ヴェーネト人はピピン軍が飢えの余り、杭を引き抜こうとしているのが分かった時、ラグーナの住民は敵軍にパンの塊を打ち込んだ。……前進は不可能で、夏が到来し、マラリアが猖獗を極めたため、退却の帆を揚げるしかなかった。 ……」
[Angelo Partecipazio(811~827) は、他の資料では《アニェッロ Agnello》パルテチパーツィオでこちらが正しいと思われます。]
[コンスタンティノス7世(913~959)はマケドニア・ルネサンスと呼ばれる文芸復興運動の中心人物。]
  1. 2015/05/14(木) 00:02:36|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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