イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの建物:ミキエール・ダッレ・コロンネ館(2) 

R.ルッソ著『ヴェネツィアの館』(1998)は、この館をミキエール・ダッレ・コロンネ(Michiel dalle Colonne)館としていますが、『大運河』(1993)とは異なり(こちらは delle Colonne)、この建物の近世の歴史について述べています。
ヴェネツィアの館「建物の通称は、1階開廊を支える柱に由来するが、グリマーニ家がそれをヴェーネト・ビザンティン様式で建てさせた時代に、既にそれは存在していた。後の17世紀の終り、建物に手を入れたのはゼン家で、バロック様式の新しいファサードは建築家アントーニオ・ガースパリに委ねられた。

その改築の少し前、建物はマントヴァ公フェルディナンド・カルロ・ゴンザーガが手に入れた。公は女性に対する情熱、〝特に身長も体重も大きな″女性好みで知られていた。マントヴァにはカローリ伯爵夫人女主人のハーレムがあり、カーニヴァル・シーズンにはパーティーのために全女性を連れて行ったということらしい。

1706年スペイン継承戦争時代、オーストリア軍がマントヴァを占領した時、フェルディナンドは大運河の彼の館に隠棲し、彫刻や絵画のコレクションをそこへ移した。1708年、パードヴァで亡くなり、彼の遺産相続人は建物をヴェローナのコニーリ伯達に売ってしまい、その後彼らもマルカントーニオ・ミキエールに館を譲ってしまった。

もう一人のマルカントーニオはヴェネツィアの総督、最後から2番目のパーオロ・レニエール(1779~1789)の孫娘ジュスティーナ・レニエールと結婚した。

ジュスティーナ・レニエールは教養豊かで才気煥発な、『ヴェネツィアの祝祭の起源(Sull'origine delle feste veneziane)』というエッセイで文学者として成功した女性だった。セレニッスィマ時代の聖俗の祝祭についての夥しい記事は大変貴重な物である。

フランス語も大変堪能で、彼女のサロンの常連だったシャトーブリアンは、彼女が〝ヴェネツィアは自然と対立する存在である″とする説に完璧なフランス語で異議を唱えるのを聞いたという。

1800年代、館の所有はマルティネンゴ家に移り、マルティネンゴ家は遺産として、ドナ・デッレ・ローゼ家に遺した。

館はファシスト国民党、その後続いて労働組合の在所となったが、現在は登記所である。」
  1. 2015/06/04(木) 00:01:45|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは十数年前。ヴェネツィアには即一目ぼれ。
その結果、伊語勉強のためにヴェネツィアの語学学校に何年間か数ヶ月通いました。
その後もヴェネツィアを訪れるたび、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら書くのが楽しいのです。

*図版はクリックすると拡大されます。

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